046 トークン
「だから、トークンとの交換にする」
「トークン?」
「陶製の小さな札か、メダルみたいなものを作る。それを持ってきた人に文字表を渡す」
ジェミニはすぐには答えなかった。
「でも商人は、そのトークンをどこで手に入れるの?」
「店のそばに交換所を作る」
フィクスは丸の横に壺を描いた。
「商人が油でも麦でも羊毛でも、こちらが受け取れる物を持ってくる。交換所で品物を渡して、代わりにトークンを受け取る。そのトークンで文字表を買う」
「それ、文字表だけに使わせるの?」
「いや、店には他の品も置くつもりだよ。交換に必要なトークンの数や商品の説明書きもアカイア文字で添える。そうやって、まず、アカイア文字と数字を使っているところを見せる」
「交換所にもアカイア文字で物とトークンの交換比率を表示する。まずは、僕らがアカイア文字を使って見せないと、誰も新しい文字なんて使わないよ」
「かなり、迂遠だけど仕方ないわね」とジェミニ。
「でも、商人が品物を持ってきてトークンに換えて、そのトークンで別の品物と換える。これは、良いわね。貨幣経済を導入する、最初の一歩になるかもしれないわ」
最初から貨幣を作るつもりなどなかった。そんなものを王子の権威だけで押しつけても、誰も価値を信じない。
だが、欲しい物と必ず交換できるトークンなら違う。文字表、数字表、書くための蝋板、尖筆、エリミオンで作らせた新しい器や食料、ほかの工房で生まれた品も並べれば、トークンの利用範囲が広がる。
品物と品物をその場で直接比べなくても、一度トークンを間に挟めば色々な物と交換できる。この便利さが実感できれば、トークンは広まるはずだ。
「……そうなるかどうかは、商人が決めることだね」
フィクスは言った。
「こちらが貨幣だと言ったから貨幣になるわけじゃない。便利なら使うだろうし、不便なら誰も使わない」
「それでいいんじゃない?」
「まずは、実験だね」
フィクスが思い出したように言う。
「ただし、傭兵には文字表、数字表を無料で使わせる」
アリタが視線を上げた。
「調査に出している者たちですか?」
「そう。今は口頭の報告と、描ける者には簡単な地図や印を残させている。でも文字を覚えれば、村の名前、水場の状態、道の幅、麦の種類まで、もっと正確に残せる」
「覚えようとするでしょうか」
「そこは報酬で誘う」
フィクスは少し笑った。
「アカイア文字を覚えて、以前より詳しい報告を持ち帰った者には報酬を増やす。読み書きを覚えろと言うだけでは面倒がられるだろうけど、覚えれば稼ぎが増えるなら話は違う」
「なるほど」
アリタは納得したように頷いた。
「商人は利便性ために覚え、傭兵は報酬を増やすために覚える、ということですね」
「文字自体にご利益はないからね。使う理由が無いとと広まらないよ」
「まずは、文字と数字を覚えると得をする仕組みを作ろう」
読めれば品物が分かる。交換比率が分かる。書ければ取引を残せる。計算できれば損を減らせる。傭兵なら、より正確な報告を持ち帰ることで報酬が増える。
「アリタ。明日から版を作ろう。最初は文字表と数字表から」
「はい」
「ジェミニは、ギリシャ語を書くのに必要な母音と、数字の体系を一緒に整理してくれる?」
「任せて」
三人の間に置かれた粘土板には、まだ何も刻まれていなかった。
だが春になり、再び多くの商船がナバルノ港へ入る頃には、その板と同じものが何十枚も店先に並んでいるかもしれない。
最初にそこへ刻むのは、王宮の書記のための文字ではない。
港で壺を数え、羊毛を量り、船荷の行き先を確かめる者たちの、王宮経済の外で活動する者たちのための文字だった。




