045 アカイア文字
夜の食事を終え、使用人たちを下がらせると、フィクスは居宅の奥にある自室へ戻った。
卓の上には蝋板と尖筆、それにアリタが用意した小さな粘土板が何枚か置かれている。窓の外はすでに暗く、灯火の揺れる部屋には三人しかいない。
アリタが扉を確かめて戻ってくると、フィクスの左手首のバングルが淡く光った。
光が床へ落ち、人の輪郭を作る。
次の瞬間には、ジェミニが卓の向こう側に腰掛けていた。
「それで、文字をどう広めるか、だったわね」
「うん。作るだけなら、それほど難しくないと思うんだ」
フィクスは蝋板を自分の前へ引き寄せた。
ナバルノ港へ来るフェニキア商人の中には、文字を扱える者がいる。二十二ほどの記号で言葉を記すその仕組みは、線文字Bに比べれば覚えるものが少ない。王宮の書記だけが使う文字ではなく、商人や職人にまで広げるなら、こちらの方がはるかに向いている。文明崩壊に備えるなら、歴史を未来に残すなら、文字を使える者は多い方が良い。
問題は、知っている者から一人ずつ教わらなければならないことだった。一対多で教えるという仕組みが王宮関係以外ではない。
「文字を覚えるための表を作ってはいかがでしょう」
アリタが言った。
「表?」
「はい。ひらがなの五十音表のようなものです。見れば、どの文字をどう読むのか分かるようにしておけば、最初に覚えるのが楽になります」
「なるほど」
フィクスは尖筆を取った。
「それなら文字だけじゃなく、横に絵も入れようか」
蝋板の端に、簡単な角のある牛を描いてみる。
「たとえば牛の絵を描いて、その横に文字を置く。その絵を何と呼ぶか知っていれば、文字の音も思い出せる。『牛』なら最初の音を取って、この文字は『う』、という具合にね」
「商人に使わせるなら、絵も商人がよく見るものの方がよさそうですね」
「葡萄、麦、羊毛、壺、船……その辺かな。港や倉庫で毎日見るものなら忘れにくい」
アリタが頷いたところで、ジェミニが卓越しに蝋板を覗き込んだ。
「でも、そのままじゃ駄目ね」
「何が?」
「フェニキア文字って、基本的に子音しかないでしょう。フェニキア語を書くならそれでいいけど、アカイア王国の言葉を書くには面倒よ」
フィクスの尖筆が止まった。
確かにそうだった。
短い品名や人名ならまだしも、報告を書かせるところまで考えれば、母音を毎回推測させる文字は扱いにくい。
「だったら、母音に相当する文字を加えよう」
「それをやったら、もうフェニキア文字とは言いにくいわよ」
「別にフェニキア文字として広める必要はないよ。誰にでも使える文字を広めて、人の暮らしの役に立てば良いんだ」
フィクスはしばらく蝋板を見つめ、それから新しく一行を刻んだ。
「昔の賢者がフェニキアの文字をもとに考案した――『アカイア文字』ということにしよう」
「また王宮の粘土板?」
「また王宮の粘土板」
フィクスが平然と答えると、ジェミニが呆れたように笑った。
「便利ねえ、王宮の古い粘土板」
「実在しない賢者には少し申し訳ないけどね。少なくとも、僕が突然新しい文字を思いついたと言うよりは説明しやすい」
それに、完全な嘘というわけでもない。フェニキア人が使っている文字を土台にしている以上、どこかの時代に同じことを考えた者がいたとしても不思議ではなかった。
ジェミニは卓へ肘をつき、今度は別の角度から蝋板を眺めた。
「ところで、そのアカイア文字、誰に使わせるつもりなの?」
「最初はエリミオンの商人かな」
「だったら文字だけじゃ足りないわね」
フィクスは顔を上げた。
「数字?」
「そう。商人が書きたいものなんて、品物の名前だけじゃないでしょう。壺がいくつ、羊毛がいくつ、油をどれだけ渡して錫をどれだけ受け取った、とか」
「ああ……そっちの方が先に役立つかもしれないな」
文字を読めなくても、数字なら使う理由がある。
フィクスは先ほどの牛の隣を消し、新しい蝋板を取った。
「数字の表も一緒に作ろう。0、1、2、3……9までの数字。それから10、100、1000」
「ゼロも?」
「入れる」
ジェミニが少し笑った。
「ずいぶん先まで行くのね」
「最初から全部理解してもらう必要はないよ。まず品物の数を書ければいい。その次に計算ができるようになればいい。ゼロが有った方が計算が楽だしね」
フィクスは数字を並べ、その下へ簡単な式を書いていった。
「10に1を足せば11。10に2を足せば12。10が2つなら20……」
そこまで書いて、自分で手を止めた。
「……今のは書き方を整理した方がいいな。足し算と掛け算を同じところに並べたら、最初に覚える人間が混乱する」
「その方がいいわね」
「まず数字の並びと位取り。そのあとに足し算、引き算。掛け算は別の板にしよう」
現代人には当たり前でも、この時代の人間にとってはそうではない。新しい文字と新しい数字を同時に押しつけ、そのうえ計算規則まで覚えろと言えば、便利さに気づく前に嫌われる。
「数字の読み方も、アカイア文字で書いておけばいいですね」
アリタが言った。
「そうしよう。文字を覚える人は数字の読み方も覚えられるし、数字を覚えたい人は文字を見ることになる」
「将来的には、九九の表なども作ってはいかがでしょう」
「それはいいね」
フィクスはすぐに頷いた。
「商人にはかなり役に立つ。決まりきった計算を毎回最初からやらなくて済む」
そこまで話したところで、アリタが訊く。
「ですが、これをどのように作るのですか?」
「粘土板に描いて焼くつもりだよ」
ジェミニが言う。
「一枚ずつ?やめた方がいいわよ。何十枚、何百枚と同じ文字を書かせるつもり?そんな仕事を陶工に頼んだら、そのうち顔を見るだけで逃げられるわよ」
エウメロスの顔が頭に浮かんだ。
便器を焼かせ、今は灰釉まで試させている。そこへ大量の文字表まで一枚ずつ書けと言えば、さすがに同情すべきかもしれない。
フィクスは粘土板を裏返し、指で表面を撫でた。
「……版を作ろう」
「版?」
「同じものを何枚も作るなら、一枚ずつ描く必要はない。文字と絵を彫った板を作って、柔らかい粘土へ押しつける。版画というより、印章を大きくしたようなものかな」
頭の中で工程を組み立てる。
粘土を同じくらいの大きさに整える。版を押す。乾燥させる。窯の空いているところでまとめて焼く。
一枚の原型さえ正確に作れば、その後は同じものを繰り返し作れる。
「アリタ」
「はい」
「版の方を頼める?」
「文字と絵を彫ればよろしいのですね」
「うん。ただし、そのまま彫ったら粘土では左右が逆になるから、版は反転させないといけない。最初は僕も一緒に確認するよ」
「かしこまりました」
話が具体的になったところで、フィクスは椅子の背へ身体を預けた。
作る方法は見えてきた。
だが、作れることと広まることは別だった。
「問題は、これをどうやって使わせるかだね」
「配る?」
ジェミニが言う。
「いや」
フィクスは首を振った。
「ただで配るのはやめようと思う」
「どうして?」
「欲しくもないものを無料で渡しても、絶対に勉強しないよ。商人が自分から欲しいと思って手に入れるものにしたい」
フィクスは先ほどまで数字を書いていた蝋板の余白に、小さな丸を描いた。




