044 灰釉
「エウメロス。フェニキアの商人が、エリミオンで作るものとは表面の違う陶器を持ってくることがありますよね。見たことはありますか?」
「ございます」
エウメロスは頷いた。
「領都で何度か。窯場にも一つ持ち込まれたことがあります。割れたものでしたが」
「こちらでは、同じものは作れない?」
「作れません」
答えは早かった。
「表面に何かを塗っていることまでは分かります。ですが、何を塗って、どう焼けばあのようになるのかは……少なくとも、私どもの窯では誰も知りません」
フィクスはその返事を聞いてから、傍らに置いてあった木箱を自分の方へ引き寄せた。蓋を開ける。箱の中には、布に包まれた器が一つ収められていた。
フィクスは両手でそれを取り出し、卓の上へ静かに置いた。
エウメロスの顔つきが変わった。
「……これは」
先ほどまで椅子へ腰を落ち着けていた身体が、知らず知らずのうちに卓へ寄っている。
器そのものはさほど大きくない。だが、エリミオンの窯で作られる土器とは表面がまるで違っていた。焼かれた土の肌がそのまま露出しているのではなく、光を受けると滑らかな表面に鈍い艶が走る。
フィロメラを通じ、アルケシラオスから借りたものだった。
異国からもたらされた品で、領主家にとっても日常使いするような器ではない。割れば、同じものを用意して返すことさえ難しい。
エウメロスも、その価値は十分に分かっているらしい。
「触れても?」
「もちろん。そのために借りてきました。ただ、落とさないでくださいね」
「……落とせませんよ、これは」
両手で慎重に持ち上げたエウメロスは、まず外側を眺め、器を傾けて光の反射を確かめた。それから指先でそっと表面を撫でる。爪を立てるようなことはしなかったが、指の腹を何度も往復させ、今度は縁を覗き込んだ。
貴重な品を扱う緊張より、陶工としての好奇心の方が次第に勝っていく。
「やはり、土そのものがこうなっているわけではない……何かが表面を覆っています」
「そう見えますか」
「はい。けれど、塗ったものが残っているという感じでもない。焼いたときに……」
言葉が途切れる。
分からないからこそ面白いのだろう。エウメロスは器を裏返しかけ、さすがにそこまで扱うのは怖くなったらしく、慎重に卓へ戻した。
「このような物を作れないかと思っています」
フィクスが言うと、エウメロスの手が止まった。
しばらく沈黙したあと、ゆっくりと顔が上がる。
「フィクス様」
「はい」
「まさか……」
エウメロスは器とフィクスを見比べた。
「このような高価な陶器の便器を作れとおっしゃるのではありませんよね?」
恐ろしいことを聞いた、とでもいうような顔だった。
フィクスは思わず笑いそうになったが、どうにか堪えた。
「まずは試作をしてほしいんです」
安心させるつもりの言葉だったが、どうやら逆効果だったらしい。エウロメロスは未だ不安そうな顔をしている。
フィクスは気にせず、もう一つの小箱を開けた。今度は高価な品ではない。中には手のひらに収まるほどの焼いた陶片がいくつも入っている。
「王宮にいた頃、古い粘土板を読んでいて、少し気になる記述を見つけたことがあります」
「粘土板に、陶器の作り方が?」
「作り方というほど詳しいものではありませんでした。だから、これで本当にできるのかは分かりません。ただ、試してみる価値はあると思っています」
そこでフィクスは、用意していた小さな器をエウメロスの前へ寄せた。
「使うのは灰です」
「灰?」
「薪を燃やしたあとの灰。それと、細かくした粘土です」
エウメロスの眉が寄った。
馬鹿にした様子ではない。自分の知っている仕事と、今聞かされた二つの材料がどう結びつくのかを考えている顔だった。
「灰は炭や石を取り除いて、できるだけ細かくする。それを細かくした粘土と混ぜ、水を加えて緩い泥のようにする。最初はこのような陶片の表面へ塗って、窯へ入れてみたいんです」
「それで、これになるのですか?」
エウメロスが異国の器を指した。
「なるかもしれない、です」
フィクスはそこを曖昧にしなかった。
「同じものになるとも思っていません。おそらく使う灰も粘土も違いますし、窯も違う。どれくらい熱くすればいいのかも、私には分かりません。そもそも、使っているのは灰ではないかもしれません」
エウメロスが顔を上げた。
フィクスは陶片を一枚取ると、その隣にもう一枚並べた。
「だから、最初から器を作るのはやめます。このようなものを何枚も用意してください。こちらは灰と粘土を同じくらい。こちらは灰を多く。次は粘土を多くする。塗る厚さも変えてみる」
さらに陶片を並べていく。
「灰も一種類に決めません。違う木を燃やして、灰を別々に取る。それから、灰をそのまま使ったものと、水で何度か洗って乾かしたものも比べたい」
「灰を洗うのですか?」
「ええ。水へ入れてよく混ぜて、沈ませてから上の水を捨てる。それを何度か繰り返します。ただ、それで良くなるかどうかも、まだ分かりません」
説明しながら、フィクスは自分でも畑でやっていることと大して変わらないと思った。
一度に全部を変えてしまえば、成功しても何が効いたのか分からない。
麦なら種を変える。堆肥を入れるか入れないかを分ける。
今度は灰と粘土と焼き方だった。
「陶片には印をつけましょう。どの灰を使ったか、どれだけ混ぜたか、どこへ置いて焼いたかが後から分かるようにします。一度でうまくいくとは考えないでください」
そこまで聞いていたエウメロスが、並べられた陶片を一枚手に取った。
「窯のどこへ置いたかも、ですか」
「必要だと思います?」
「必要です」
今度はエウメロスが即答した。
「同じ窯の中でも違います。火に近いところと遠いところでは焼け方が変わる。薪の入れ方でも変わります」
フィクスは頷いた。
「そこはあなたに任せます。私には分からないところですから」
エウメロスは陶片を持ったまま、しばらく考え込んだ。
やがてもう一枚を取り、二枚を並べる。
「同じものを塗った陶片を、窯の違う場所へ置いてみてもよろしいですか」
「もちろん。その方がいい」
「薪も変えますか?」
「最初から全部変えると、何が違ったのか分からなくなるでしょう。まずは条件を絞った方がいいと思います」
「なるほど……」
返事をしながらも、エウメロスの目はすでに異国の器ではなく、安物の陶片へ向いていた。
フィクスはそれを見て、少し安心した。
原理を知っていることと、作れることは違う。
フィクスには灰が高温で釉になることは分かる。だが、エウメロスの使う粘土の性質も、窯の癖も、薪を入れる間合いも知らない。窯の中でどこが最も熱くなるのかさえ、実際に火を扱う人間にしか分からない。
そこから先は、この陶工の仕事だった。
「まず陶片で試す。良さそうなものができたら小さな器で試す。それがうまくいったら、もう少し大きなものへ移りましょう」
「分かりました」
「急がなくていいですよ。失敗したものも捨てないでください。全部見たいので」
「失敗したものまで?」
「むしろ、そちらの方が次に役立つかもしれません」
「どの様な条件で焼いたものが、どのような仕上がりになったのかは、必ず記録して下さい。せっかく、上手く焼けても、条件があいまいでは再現できなくなってしまいますから。もしも不安でしたら、記録の仕方については相談にのります」
エウメロスは陶片を眺め、それから領主家から借りた器へ視線を移した。
先ほどまでの驚きは薄れ、代わりに職人らしい熱が目に宿っている。
やってみたい。
その顔には、はっきりそう出ていた。
だが、やがて何かを思い出したように、その表情が曇った。
「……フィクス様」
「何です?」
「先ほど『まずは試作をしてほしい』とおっしゃいましたね」
「言いました」
エウメロスは目を閉じた。
「このような貴重な陶器の便器を作ること自体は、否定なさらないのですね……」
絶望したような声だった。
フィクスはニコリと笑みを作ってから答えた。
「うまくいったら、試してみたいですね。洗いやすそうですから」
エウメロスは何も言えなかった。
ただ、領主家の貴重な器を見つめて深々と息を吐いた。




