041 賢者の言葉
コトナへ戻ると、アンティロコスはすでにいた。
フィクスの住居は赴任に合わせて建てられたばかりで、広間にはまだ新しい木材の色が残っている。三人は卓を囲み、それぞれの前には香草を煮出した茶と、細い尖筆、蝋板が用意されていた。昼の食事とは違う。これから聞いたことを書き留めてもらうためのものだった。
アリタが最後の杯を満たして一歩下がる。
「今日はありがとうございました」
フィクスは二人を見た。
「青銅工房を見せてもらったおかげで、知りたかったことがかなり分かりました。アンティロコスには、わざわざ戻って調べてもらいましたし」
「父の工房ですから。あれくらいは」
アンティロコスの手元には、工房から持ち帰った数字がすでに書き留められているらしい。フィクスはそこへ目をやったが、すぐに聞こうとはしなかった。
「その話の前に、こちらから話しておきたいことがあります」
フィロメラが顔を上げた。
「私がコトナで何をしているのか、二人とも御父上から見てくるように言われたのでしょう?」
アンティロコスが一瞬フィロメラを見た。
「フィロメラから聞いたのではありませんが、分かりますよ。畑を借りて、水場を調べさせて、道を歩かせて、窯場へ行ったと思ったら今度は青銅工房です。領主が何も聞かない方がおかしい」
責める調子ではなかった。アンティロコスも隠す必要はないと判断したらしい。
「父上は、何をなさっているのかより、なぜなさっているのかを知りたがっています」
「私も、そちらから話した方がいいと思っていました」
フィクスは尖筆を取り上げた。
「王宮にいた頃、古い粘土板を読んだことがあります」
蝋板にはまだ触れないまま続ける。
「昔、王国を大きな旱魃が襲った時期があったとのことです。何年か不作が続き、王宮へ入る穀物が減って、蓄えていたものを出した記録が残っていました」
ジェミニと相談した通りに二人に告げる。
「何年も……」
フィロメラが小さく呟いた。
アンティロコスは何も言わなかったが、表情が変わった。領主家の人間として、麦が一年取れないことと、それが何年も続くことの違いを想像したのだろう。
「その粘土板に、もっと古い時代の賢者から伝わったという言葉も残っていました。大旱魃に備えよと、刻まれていた言葉です」
「水を知れ」
一行刻む。
「土地を知れ。種を選べ。土を守れ」
向かいで、アンティロコスも尖筆を取った。フィロメラもそれに続く。
「余った年には蓄えよ。一つの実りに頼るな。そして――」
最後の言葉を刻む。
「他所から食べ物を得る道を持て」
フィクスは尖筆を置いた。
「七つです」
しばらく、蝋を引っかく小さな音だけが広間に続いた。
先に書き終えたアンティロコスが、並んだ言葉を上から読み返す。
「水を知れ……」
その指が最初の一行で止まった。
「それで泉を調べているのですか?」
「ええ」
「場所だけではなく、夏にどれだけ水が減るかまで聞いていると父上は言っていました」
「旱魃になってから枯れない泉を探しても遅いでしょう」
それだけ答えると、アンティロコスの指が次へ動いた。
「土地を知れ」
今度はフィロメラが顔を上げた。
「地図ですね」
「たぶん、それだけじゃない」
アンティロコスが妹の言葉を引き取った。
「村の場所、畑、道……荷を運べる道まで調べているそうだ」
そこで兄妹が同時にフィクスを見る。
フィクスは頷いただけだった。
アンティロコスの視線が三つ目へ移る。
「種を選べ……だから、色々な場所から麦を集めている。旱魃に強い麦を選ぶため」
「堆肥や土の保水を試しているのが、土を守れ、ですか?」
フィロメラが続ける。
「そう考えています」
二人は再び蝋板へ目を落とした。
父から聞かされたときには、つながりの見えなかったものだった。泉を調べること、麦を集めること、畑を肥やすこと、傭兵たちに道や村の位置を書かせること。
だが、七つの短い言葉を間に置くと、互いに離れていたものの繋がりが見えてくる。
やがてアンティロコスの指が止まった。
「では、今日の青銅工房は?」
フィクスは答える代わりに、どの言葉だと思う、と問い返そうとしてやめた。試すために話しているわけではない。
その間にフィロメラが蝋板を見ていた。
「一つの実りに頼るな……でしょうか」
「そうです。実は私も最初は、それを作物のことだと思いました。色々な種類の作物を作ること」
「違うのですか?」
「違うというより、それだけではない、と思うようになりました」
フィクスは卓の上の茶へ手を伸ばした。
「コトナへ来てから、ナバルノ港で商人と話したんです。オリーブ油を壺一つ持っていって、錫と交換してみました」
「ご自分で?」
フィロメラが聞き返した。
「相場を知りたかったので」
アンティロコスは驚くより先に何か思い当たったらしく、わずかに眉を寄せた。
「錫……」
今日の工房で大量に使われていた金属だった。
「その商人から何か聞いたのですか?」
「エリミオンの油は悪くないそうです。ただ――油なら他所にもある、と」
アンティロコスの視線が、工房から持ち帰った自分の蝋板へ落ちた。
「銅も錫も、こちらでは十分に手に入らない」
「そうです」
「だから外から手に入れる。その代わりに、こちらの油や葡萄酒を渡す」
フィクスは何も言わなかった。
アンティロコスはそこで一度黙り、自分で考え直すように蝋板へ視線を戻した。
「……旱魃に備えて蓄えたいのに、その農作物を外へ出さなければ、必要なものが手に入らない」
フィクスが頷く。
「そこが気になったんです」
フィロメラも兄の言葉を追っていた。
「でも、油や葡萄酒を出さないわけにはいきませんよね」
「はい」
「だったら……」
彼女の視線が、再び六番目の言葉へ戻った。
一つの実りに頼るな。
昼間、フィクスが青銅工房で何を見ていたかを思い出す。剣の出来映えより、原料がどこから入り、誰の手を通り、何になって出ていくのかを聞いていた。
その前には陶工の窯場へ行っている。
「もしかして、フィクス様が窯場や青銅工房を見ているのは……」
フィロメラが言いかけたところで、アンティロコスも気づいた。
「交換物ですか?」
「他人が欲しがる物が作れるかを知るためです」
フィクスは答えた。
「作れば交換してくれるとは限りませんから」
「農作物ではないものを?」
「ええ」
そこでフィロメラが、自分の蝋板へ視線を落とした。
「陶器……青銅製品……」
少し間を置く。
「織物も?」
「そのつもりです」
フィロメラの目が上がった。
フィクスは昼食の席で聞いたことを思い出した。
「そのときは、フィロメラにも教えてもらいたいと思っています」
「私がですか?」
「布を見るのが好きだと言っていたでしょう。私は織物についてほとんど知りませんから」
「母について作業場へ行っているだけです」
「それでも私よりは知っています」
フィロメラはすぐには返事をしなかった。
けれど、先ほどまでとは違う目で六番目の言葉を見ていた。
一つの実りに頼るな。
畑に一種類の作物だけを植えるな、ということだけではなかった。
「なるほど……」
アンティロコスの声に、二人がそちらを見る。
彼は自分の蝋板へ三つの言葉を書き足していた。
陶器。
青銅。
織物。
「これを外へ出せるようになれば、その分だけ油や葡萄酒を残せる」
「はい」
フィクスが頷く。
「全部を置き換える必要はありません」
「それでも、旱魃の前なら倉へ回せる」
「ええ」
「旱魃になった後なら――」
アンティロコスの尖筆が、今度は七番目の言葉へ移った。
「他所から食べ物を得る道を持て」
フィクスはわずかに笑った。
そこまで自分で辿り着いたなら、もう長く説明する必要はなかった。
フィロメラも七番目を見ている。
「他人が欲しがるものがあれば、食べ物と交換できる……」
「では、港で商人と話しているのも……」
「海の向こうから何が来るのか、何を欲しがっているのかを知っておきたいからでしょう」
アンティロコスが先に答えた。
今度はフィクスも口を挟まなかった。
兄妹の間で七つの言葉と、これまで父から聞いてきたフィクスの行動が行き来している。
泉。地図。試験畑。堆肥。窯場。港。青銅工房。
フィロメラは、昼間に父の言葉を思い出してフィクスへ尋ねようとしたとき、なぜ彼が「アンティロコスも揃ってから」と言ったのか、ようやく分かった気がした。
どれか一つを聞いても意味がなかったのだ。
「しかし」
アンティロコスが顔を上げた。
「本当に大旱魃が来るのですか?」
フィクスは少しだけ間を置いた。
「分かりません」
あまりにあっさりした答えだったため、アンティロコスが目を瞬いた。
「来年かもしれない。十年後かもしれない。私たちが生きている間には来ないかもしれません」
「それでも、これだけのことを?」
「大旱魃が来なかったら、困りますか?」
「え?」
「水場の位置が分かる。道や土地の様子が分かる。少ない水でも育つ麦が見つかる。畑が良くなる。穀物を蓄えられる。陶工や織り手の作るものが他所で売れるようになる。港に交易相手が増える」
フィクスはそこで言葉を切った。
「どれも、大旱魃が来なければ無駄だった、ということにはならないでしょう?」
アンティロコスは何も答えなかった。
フィクスもそれ以上説明せず、茶を飲んだ。
少し冷めていた。
広間には、尖筆が蝋を引っかく音が戻った。
アンティロコスは七策の横へ何かを書き加え、フィロメラも自分なりに書き留めている。
やがてアンティロコスが工房から持ち帰った蝋板を取り出した。
「今日調べた銅と錫の量ですが」
「ええ。見せてください」
受け取ろうとしたフィクスに、アンティロコスはすぐには蝋板を渡さなかった。
「その前に一つ」
「何でしょう」
「父上には、今日聞いたことをそのまま話しても構いませんか?」
「もちろんです。そのために話しました」
「分かりました」
それでもアンティロコスはしばらく蝋板を持ったままだった。
「……父上には、少し長い話になりそうです」
「七つだけなら短いですよ」
フィクスが言うと、アンティロコスは首を振った。
「七つだけ伝えたら、たぶん違う話になります」
フィクスは一瞬黙り、それから笑った。
「それなら、お任せします」
ようやく差し出された蝋板を受け取る。
その隣でフィロメラは、まだ自分の蝋板を見ていた。
六番目――一つの実りに頼るな。
その脇には、小さな文字で三つの言葉が増えている。
陶器。
青銅。
そして、織物。
フィロメラは最後の一語を尖筆の先でなぞってから、静かに顔を上げた。




