040 フィロメラと昼食
青銅工房を出ても、しばらくは耳の奥に槌の音が残っていた。炉の熱気と木炭の匂いから離れ、港から吹いてくる風が肌に触れるようになると、フィクスはようやく足を緩めた。
アンティロコスとフィロメラも並んで歩いている。工房では予定していた以上に長居したが、まだ日は高い。フィクスは港の方角へ目をやってから、二人に声をかけた。
「港の近くに昼食の席を用意してあります。よければ三人で食べていきませんか」
「昼食?」
アンティロコスが聞き返した。フィクスが頷くと、彼は一度フィロメラを見て、それからなぜか背後の工房を振り返った。
「……そういえば、さっき聞き忘れたことがありました」
「何をです?」
「この工房で使っている銅と錫の量です。父上にも聞かれるでしょうし、去年の分くらいは調べておきたい」
つい先ほどまで一緒に工房を見ていたはずなのに、ずいぶん唐突な話だった。しかも、昼食を済ませてから戻っても困るような用事には聞こえない。
フィクスが何か言うより早く、アンティロコスは続けた。
「二人で行ってきてください。私は調べ終わったら政庁へ戻ります」
「兄上?」
フィロメラが怪訝そうに呼び止めたが、アンティロコスは「では、あとで」とだけ残し、さっさと来た道を引き返してしまった。
その背中を見送っていると、左手首のバングルから楽しげな声が頭の中へ届いた。
『気を使わせてしまったみたいね』
(たぶん、そうだろうな)
『お兄さん、いい人じゃない』
フィクスは小さく息をつくと、隣に残されたフィロメラへ向き直った。
「二人になってしまいましたが……どうします?」
フィロメラは兄が消えた方角をもう一度見たあと、わずかに笑った。
「せっかく用意してくださったのでしょう。参ります」
「では、こちらです」
港から少し離れた丘へ続く道を上っていく。急な坂ではなく、海を横に見ながら歩ける緩やかな道だった。工房の煙も港の喧騒も次第に遠ざかり、代わりに草を渡る風の音が聞こえてくる。丘の上へ出たところで視界が大きく開け、フィロメラが足を止めた。
眼下には青い湾が広がっていた。港へ入ろうとする帆船も、岸辺に並ぶ倉や家々も、ここからなら一望できる。初夏の日差しは明るかったが、一本の大きな木が枝を広げ、その近くには白い布を張った日除けが設けられていた。布は海から吹いてくる微風を受けて、ときおりゆっくりと膨らんでいる。
その下に卓と椅子が置かれていた。
「……ここですか?」
「ええ」
卓には白い布が掛けられ、中央には小さな器に花が生けられている。籠にはパンが盛られ、チーズとオリーブ、初夏の果物がそれぞれ器に分けられていた。蜂蜜を使った小さな菓子もあり、葡萄酒を水で薄めるための水差しまで揃っている。
フィクス自身、この場所へ来るのは初めてではなかったが、こうして仕上がったものを見るのは初めてだった。
(……ずいぶん本気でやったな)
『当然でしょ。初めて二人で食事するんだから』
実際に手配し従者達に指示したのはリュサンドロスだった。日除けの布を張らせ、卓や椅子を運び、食事を用意したのも彼である。ただし、どこに卓を置き、布をどう張り、花をどの程度飾ればよいかについては、アリタが細かな注文をつけていた。
失敗ではなかったらしい。フィロメラは海と卓を交互に眺めている。
「きれいなところですね」
「気に入ってもらえたならよかった」
「港は何度も見ていますけれど、上から見ると随分違います」
フィロメラが海へ目を戻した。領主の娘として見慣れているはずの港も、荷や人の出入りを確かめるためではなく、ただ眺めるだけなら違う景色になるのかもしれない。
フィクスは椅子へ回り、彼女が座りやすいように少し後ろへ引いた。
フィロメラが振り返る。
「……?」
「どうぞ」
「あ、はい」
腰を下ろすと、フィロメラは少し不思議そうにフィクスを見上げた。
その反応で、フィクスはようやく気づいた。
やってしまった。
女性が座るときに椅子を引くなど、かつて生きた物語世界の一つでは考えるまでもない習慣だったから、身体が先に動いていた。
「何かおかしかったですか?」
「いえ……」
フィロメラはもう一度椅子を見てから、わずかに首を振った。
「こうしていただいたのは初めてでしたので」
「そうでしたか」
素知らぬ顔でフィクスも向かいの席についた。
少し離れたところに控えていたアリタが近づき、二人の杯へ葡萄酒と水を注ぐ。いつもの侍女姿の彼女は、ジェミニとともにこの席を企画した張本人とは思えないほど澄ました顔をしていた。
「どうぞ」
「ありがとう、アリタ」
パンをちぎり、チーズとオリーブを取りながら、しばらくは海を眺めて食べた。工房では金属の配合や原料の入手先、職人の仕事について話し続けていたせいか、急に会話の必要がなくなると、何を話せばよいのか少し迷う。
政庁で役人を相手にするなら困らない。商人なら品物か交易の話をすればよい。だが、婚約者と二人きりで昼食をとるための会話となると、別の種類の技術が必要だった。
フィクスは少し考え、目の前の少女を見る。
「フィロメラは、食べ物は何が好きですか」
『ブハッ』
不器用すぎると、ジェミニが思わず吹き出す。しかし、それ以上は邪魔をしなかった。
「果物は好きです。特に無花果が」
「無花果ですか」
「フィクス様は?」
「私は……」
問われてみると難しかった。いくつもの世界で、いくつもの身体で暮らしてきた。美味いものなら山ほど知っている。しかし今の自分が、この土地で好きなものは何かと考えると、意外なほど答えが出てこない。
「焼きたてのパンは好きですね」
「パンですか?」
「ええ。朝、焼いたばかりのものをもらえると、それだけで少し得をした気になります」
フィロメラが笑った。
王子らしい答えではなかったのだろう。
だが、その笑顔を見たところで、フィクスも少し肩の力が抜けた。
「海は好きですか?」
「好きです。でも、こうして眺めるより、領主館から港へ来るときのほうが多いですね」
「仕事で?」
「母について来ますから。荷を確かめたり、商人と話したり」
「では今日は、仕事ではない海ということで」
「そうですね」
海風が日除けの布をふわりと持ち上げ、卓の花が小さく揺れた。沖では帆を張った船が一隻、湾口へ向かってゆっくり進んでいる。
「何をしているときが、一番楽しいですか?」
フィロメラはすぐには答えなかった。
「難しいですね」
「難しい話をしているつもりはなかったんですが」
「そうではなくて……考えたことがなかったんです」
彼女は蜂蜜の菓子を一つ取った。
「母と一緒に作業場へ行くのは好きです。織り上がった布を見たり、染めた色を比べたりするのも。仕事ですけれど」
「好きなことと仕事が同じでも、別におかしくないでしょう」
「フィクス様は?」
「知らないことを調べているとき、でしょうか」
口にしてから、工房でも畑でも窯場でも同じようなことをしている自分に気づいた。
「それなら、今はずっと楽しいのではありませんか?」
「……言われてみれば、そうかもしれません」
二人で笑った。
話題はそのまま、領都の外へ移った。
「行ってみたいところはあります?」
「アカイア王宮は一度見てみたいです」
「王宮ですか」
「獅子門とか、フィクス様には珍しくもないのでしょうけれど」
「珍しくはないですが……住むのと見るのは違いますよ」
それだけ言うと、フィロメラは何か察したのか、それ以上は尋ねなかった。
「もっと遠くなら?」
「クレタ島を見てみたいです。港へ来る商人から話を聞いたことがありますから」
「クレタ……」
それなら自分も見てみたい。交易の中心としてだけでなく、この世界がどこまで自分の知る青銅器時代と同じなのか、一度自分の目で確かめてみたい場所でもあった。
「いつか行けるといいですね」
「はい」
穏やかな会話が続いたあと、フィロメラがふと姿勢を正した。
「そういえば父から、フィクス様がコトナでいろいろなことをなさっていると聞きました。畑のことや、水のこと、それから――」
「ああ、それは」
フィクスは遮るのではなく、杯を置いて彼女を見た。
「アンティロコスも揃ってからにしましょう。政庁でゆっくり話します」
「でも……」
「今日は二人とも工房見学に付き合ってくれたでしょう。難しい話は、あとで十分です」
フィロメラは一瞬だけ迷ったようだったが、やがて表情を緩めた。
「分かりました」
父親から何か言われて来たのだろう、とフィクスは思った。アンティロコスも工房では、フィクスがどこを見るかを注意深く見ていた。隠すほどのことではないし、むしろアルケシラオスにはいずれ説明しておいたほうがいい。
ただ、それを今ここでする必要はなかった。
せっかく海が見える場所まで来たのだ。今日は、婚約者が無花果を好み、クレタを見てみたいと思っていることを知れただけでも十分だった。
食事が終わり、アリタが器を片づけ始めたところで、フィクスは用意していた包みを取り出した。
「これを」
「私にですか?」
「今日、付き合わせてしまったお礼です」
フィロメラが布を開くと、中から小さな青銅の手鏡が現れた。
磨かれた鏡面は現代の鏡ほど鮮明ではない。それでも顔を映すには十分で、裏側には海を跳ねるイルカをかたどった素朴な意匠が施されている。
「可愛い……」
フィロメラは鏡面を見たあと、裏返してイルカの模様を指でなぞった。
「先ほどの工房で?」
「いえ。これは港で商人から手に入れたものです」
フィクスは海へ視線を向けた。
「ここから海を見る予定だったので、イルカなら合うかと思って」
言ったあとで、自分でも少し出来すぎた台詞だと思った。
フィロメラはもう一度、鏡の裏のイルカを眺めてから、海を見る。
「ありがとうございます。大切にします」
「気に入ってもらえたなら何よりです」
丘を渡る風が、白い日除けをゆっくりと揺らした。
フィクスは杯に残った薄い葡萄酒を飲みながら、眼下の港へ目をやった。工房へ戻ったアンティロコスも、そろそろ調べ終える頃だろう。政庁へ戻れば、また畑や水や地図や青銅の話になる。
それまでは、もう少しだけここにいてもいい。
隣ではフィロメラが贈られた鏡を日にかざし、青銅の裏面を泳ぐ小さなイルカを眺めていた。
昼食の席イメージ図




