039 青銅工房
エリミオンの領主アルケシラオスは、使者が置いていった粘土板を卓の上に戻すと、向かいに座る二人の子供へ目を向けた。
「フィクス様からだ。コトナの近くにある青銅工房を見たいそうだ」
アンティロコスがわずかに眉を上げた。父の所領にある工房のうち、金属を扱うところについては、三男である彼も何度か出入りしている。領主の館で使う道具ばかりではない。農具もあれば、槍の穂先や剣といった武具も作る。何より銅も錫も、麦や木材のように土地からいくらでも得られるものではなかった。領主の側で出入りを把握しておかなければならない品である。
「私が案内しますか」
「そのつもりだ」
アルケシラオスは答えてから、今度はフィロメラを見た。
「それと、お前にも来ないかと書いてある」
「私に?」
「青銅工房へ、とは書いておらん。コトナへ遊びに来ないか、だ」
父親の口元に微かな笑みが浮かんだのを見て、フィロメラは何も答えず粘土板へ目を落とした。婚約者から誘いが来たことを父や兄の前で喜んでみせるほど幼くはない。それでも、断る理由を探そうとは思わなかった。
アルケシラオスもそれ以上からかわなかった。むしろ表情を改めると、背もたれに身体を預けた。
「ちょうどいい。二人とも行ってこい。工房はアンティロコスが案内しろ。だが、それだけではない。フィクス様がコトナで何をしておられるのか、自分の目で見てくるといい」
アンティロコスが父を見る。
「何かあったのですか」
「何かあった、というほどのことではない。だが、赴任されてから、ずいぶん動いておられる」
アルケシラオスのところには、領内の村々や役人、有力な家々から日々さまざまな話が入ってくる。フィクス自身が隠していない以上、王子の周囲で人や物が動けば、その話が領主の館まで届くのは当然だった。
「畑では、条件を変えて作物を育てているそうだ。同じような土地をいくつかに分けて、今まで通りの畑と違うことをした畑を比べる。堆肥というものも作らせているらしい。野菜だけではない。オリーブや葡萄についても何やら試しているらしい」
フィロメラの顔から、先ほどまでの娘らしい照れが消えた。
「収穫を増やすためですか」
「おそらくな。だが、それだけならまだ分かる」
アルケシラオスは指を一つ折った。
「村々に、泉や井戸について聞かせている。どこに水があり、夏にどこまで減るのか。それを調べさせているらしい。それから道と村の位置を調べて、土地の様子を板に書かせている」
「地図ですか」
アンティロコスが口を挟んだ。
「そのようなものらしい。さらに窯場へ行って、陶工が何をどう作っているのかまで見ている」
そこまで聞くと、フィロメラにも父が二人を呼んだ理由が分かってきた。
どれも、それだけなら奇妙なことではない。領地を預かった者が畑を見る。水場を調べる。道を知る。職人の仕事を見る。むしろ真面目な管理者ならして当然のことにも思える。
ただ、フィクスはコトナへ赴任して、まだそれほど経っていない。
「ずいぶん広いですね」
フィロメラが言うと、父は頷いた。
「そういうことだ。一つ一つは小さい。しかもフィクス様は何一つ隠しておられん。だからこそ、私には何をしようとしているのかがまだ分からん」
警戒している、という声音ではなかった。
アルケシラオスは、娘の婚約者を疑う父親である以前に、この地方を預かる領主だった。王家から送り込まれた第八王子が、自分の領内で畑、水、道、窯場へ次々に手を伸ばしている。その目的を知ることは必須だ。
「青銅工房まで見たいというなら、なおさらだ。アンティロコス、お前は工房を案内しながら、フィクス様が何を見るかを見てこい」
「分かりました」
「フィロメラ」
「はい」
「お前は兄とは違うものを見るといい」
フィロメラは父の言葉を待った。
「お前はいずれ、あの方のそばで暮らすことになる。何をしているかだけではなく、なぜそうしているのかを見てこい」
少し考えてから、フィロメラは頷いた。
「分かりました」
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約束の日、アンティロコスとフィロメラがコトナの政庁を訪れると、フィクスはすでに出かける支度を整えて待っていた。
簡単な挨拶を済ませたあと、三人は護衛を伴って港へ向かった。
港の賑わいを抜け、その外れへ近づくにつれて、潮と魚の臭いに別の匂いが混じり始めた。木炭の煙だった。
「もう火を入れているようですね」
アンティロコスが言った。
フィクスは返事をしながら、煙の流れる方向を見た。港の中心からは離れているが、孤立しているわけでもない。船で運び込まれた重い金属を陸路で長く運ばずに済み、木炭も運び込める。火を扱う以上、人家が密集する場所から離す意味もある。
なるほど、とフィクスは思った。
場所そのものが、仕事の都合を示している。
工房へ入ると、まず熱気が押し寄せてきた。
屋根の下すべてが同じ仕事場になっているわけではなかった。奥では炉が赤々と燃え、男たちが送風を続けている。その少し離れたところには鋳型が並び、さらに先では槌の音が絶え間なく響いていた。火花と煙、金属を叩く乾いた音が重なり、港とはまるで別の場所に入ったようだった。
フィクスは足を止めた。
「原料から見てもいいですか」
工房を預かる男がアンティロコスを見た。アンティロコスが頷く。
「フィクス様が望まれるところは、すべてお見せしろ。父上からの命だ」
案内された一角には、形の揃った金属ばかりが置かれているわけではなかった。銅の塊の横に、明らかに一度は何かの道具だった青銅片が積まれている。
フィクスはその前でしゃがんだ。
「これは?」
「壊れたものです。刃が駄目になった斧や、折れた道具、作り損ねたものもここへ戻します」
「捨てないんですね」
男が、何を当たり前のことをという顔をした。
「青銅ですよ」
その一言で十分だった。
フィクスは小さく笑って立ち上がった。
「そうですよね」
アンティロコスはその様子を黙って見ていた。
王子が青銅工房へ来たと聞いたとき、珍しい剣でも欲しいのかと思っていた。ところがフィクスは完成品にはまだ目も向けない。壊れた道具の山の前で足を止め、それがどこから戻され、誰が数え、どのように再び使われるのかを聞いている。
やがて炉のそばへ移ると、フィクスはさらに長く立ち止まった。
ここへ運び込まれている銅は、鉱石そのものではない、海の向こうで精錬された銅塊だった。それを坩堝へ入れ、木炭を惜しげもなく燃やして溶かしていく。そこへ別に保管されていた錫が加えられる。
「いつも同じだけ入れるんですか」
工人は首を振った。
「作るものによります。それに、銅も錫も毎回まったく同じものではありません」
「どうやって決めるんです?」
「色も見ます。溶け方も見る。前に作ったものも覚えています」
フィクスは炉の中へ目を戻した。
秤で決まった割合を量って終わり、ではないらしい。
経験だ。
材料の状態を見て、火を見て、出来上がったものを見て、次を変える。書かれた手順ではなく、人間の中に工程が蓄積されている。
溶けた金属が鋳型へ注がれる段になると、三人は危険のない位置まで下がった。
鋳型へ流し込まれた金属は、そこで完成品になるわけではなかった。冷えて型から外されたものには余分な部分が残り、それを落としてから、別の工人の手へ渡される。槌を振るう者が形を整え、刃物ならさらに刃を作り、石で研ぐ。槍の穂先なら最後には木を扱う職人の仕事まで加わる。
一つの工房の中を、物が流れていく。
フィクスはそれを追うように歩いていた。
銅と錫の置かれた場所から炉へ。炉から鋳型へ。鋳型から槌を振るう場所へ。そして研磨を経て、完成品の置かれた棚へ。
途中で失敗したものは、最初の原料置場へ戻っていく。
そこでようやく、フィクスはアンティロコスへ振り返った。
「この工房では、どれくらい銅と錫を使うんですか」
予想していなかった問いだったらしく、アンティロコスが瞬きをした。
「記録ならあります」
アンティロコスが答えた。
「父上のところへも報告が上がります。ここは領内でも大切な工房ですから」
フィクスの目がわずかに明るくなった。
「見せてもらえますか」
アンティロコスは、その顔をしばらく眺めてから頷いた。
「ええ。父上から、できるだけフィクス様の望むようにと命じられています」
「ありがとうございます」
フィロメラがフィクスを見た。
畑でも同じだったのだろう、と彼女は思った。
麦そのものだけを見ているのではない。どれほど種を播き、どれほど穫れたのか。水場なら泉そのものではなく、どこにあり、いつまで水があるのか。道なら歩くだけではなく、どこへつながっているのか。
そして今、青銅工房でも、剣や槍を見に来たのではない。
何が入ってきて、誰の手を通り、何になって出ていくのか。
「記録を見る前に、もう少し教えてください。錫が届かないときは、どうしています?」
今度はフィロメラとアンティロコスが、ほとんど同時にフィクスを見た。
工房の男も、少し考えてから答えた。
「……古い青銅を多く戻します。それでも足りなければ、作るものを選びます」
「何から諦めます?」
槌の音が響く中、フィクスは静かに次の答えを待っていた。
フィロメラは、その横顔を見つめた。
父に持ち帰る話は、どうやらずいぶん多くなりそうだった。




