038 ナバルノ港③
取引の仕方は、思っていた以上にばらばらだった。壺を一つ抱えて来て、その場で異国の品と交換して帰る者がいる。その一方で、商人と長く話した後、何も受け取らずに去る者もいた。後者の何人かは、別れ際に互いの腕を取って何かを確かめ合っている。先ほどリュサンドロスから聞いた、次の航海までに品を揃えておく約束なのかもしれない。
フィクスはそうした様子を眺めながら歩いた。
アリタは少し後ろを歩いている。オリーブ油の壺は、相変わらず彼女が持っていた。護衛の二人も距離を空けてついてくる。
何人目かのフェニキア人の前を通り過ぎたところで、フィクスは左手首へ意識を向けた。
(ジェミニ)
『なに?』
(誰が一番、手広く商売をしていそう?)
返事はすぐには来なかった。
フィクスは歩調を変えず、人の間を進んだ。
『そうねえ……少し待って』
『右。前から三人目。赤茶色の縁取りがある服の男』
『自分ではほとんど荷物を運んでない。あの人のところへ別の商人が何度も話をしに来てる。それに、油だけじゃなくて、羊毛、葡萄酒、革、錫の話もしてた。さっき港の倉庫のことで地元の男とも話してたよ』
(なるほど)
『あと、キプロスとクレタの地名が出た』
フィクスはそこで初めて男を見た。
四十を越えているだろうか。日に焼けた顔に短く整えた髭があり、傍らには若い男が二人いる。目の前に並べている品は意外に少ない。しかし、その後ろには口を縄で封じた袋や木箱が置かれ、さらに少し離れた場所では、仲間らしい男たちが荷を扱っていた。
確かに、露店の商人というより、そこを取引の場所として使っているように見える。
(あれだな)
『うん』
フィクスはアリタを振り返った。
「その壺を」
「私がお持ちします」
「ここからは私が持った方がいい」
アリタは一瞬だけフィクスを見たが、理由を察したのか何も言わずに渡した。
壺を受け取り、フィクスは商人の前へ向かった。
男は近づいてくる一行を見た。
まずフィクスを見る。次にアリタ。さらに後ろの護衛へ視線が移る。
ただの農民が油を売りに来たわけではないと分かったはずだ。それでも慌てて立つことも、過度に頭を下げることもしなかった。
「油を交換したいんだけど」
フィクスは壺を置いた。
商人の目がわずかに細くなる。
「もちろん」
訛りはあるが、言葉は通じた。
「確認しても?」
「どうぞ」
フィクスの返事を聞いてから、男は栓を開け、少量を指先へ取った。擦り合わせ、匂いを嗅ぐ。それからフィクスを見る。
「このあたりの油ですな」
「エリミオンのコトナのものです」
「悪くない」
「どのくらいの価値があります?」
「何をお望みで?」
「錫はありますか」
今度は明らかに商人の目が変わった。油壺一つを持ってきて、装身具でも針でもなく錫を求める。それが珍しい。断ることもできたが、興味を持った商人は聞く。
「青銅をお作りになるので?」
「作らせることはあります」
嘘ではない。
「まず、この壺一つならどのくらいになるのか知りたいんです」
商人は少し考えてから、傍らの若い男へ声をかけた。
木箱が一つ運ばれてくる。
蓋が開くと、中には灰白色の金属が入っていた。
錫である。青銅器文明を支えているにもかかわらず、この土地では十分に産出しない金属だった。
商人はその中から小さな塊を取り出した。
「これで」
フィクスはすぐに答えなかったが、値切ることもなく返答する。
「それで結構です」
承諾すると、逆に商人が少し意外そうな顔をした。
「値切られないので?」
「今日は相場を知るために来ました。あなたがどんな値をつけるかも含めて」
商人は一瞬黙り、それから声を上げて笑った。
「なるほど。これは商いではなく、勉強代でしたか」
フィクスはあいまいに頷く。
「お名前を伺っても?」
フィクスが尋ねる。
「アブディミルクと申します。テュロスの者です」
「私はフィクス。今はコトナを預かっています」
商人の表情が変わった。後ろにいる護衛とアリタに視線を向ける。
もしかすると、王子の赴任について、すでに情報を得ているのかもしれない。耳が聡い商人は良い商人だ。
「油の壺を一つ持ってきた客です。それで構いません」
アブディミルクはしばらくフィクスを見ていたが、やがて頷いた。
「では、そういたしましょう」
フィクスはその場を離れなかった。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「その錫は、どこから?」
アブディミルクは錫の箱へ目をやった。
「キプロスで積んだものです。ですが、キプロスの錫でもない。そこへ来るまでに、いくつもの手を渡っているはずです」
「では、あなた自身も産地を知らない?」
「聞いた話ならございます。しかし、真偽については……」
それはフィクスにも分かった。
「それでは、銅は?」
「銅ならキプロスです。あそこで良く採れます」
「錫の方が手に入りにくい?」
「ずっと」
アブディミルクは当然のように答えた。
「銅を積んだ船は珍しくありません。錫は違う。欲しがる者が多いのに、来なければどうにもならない」
「値も変わる?」
「もちろん。多く来れば下がる。来なければ上がる」
「今年は?」
アブディミルクがフィクスを見た。
今度はすぐに答えなかった。情報を渡すことによる損得を勘定しているようだ。相手が身分のある者であれば、今後何がしかを期待できるかもしれないと。
「こちらへ来る量が少ないようです」
「なぜ少ないんです?」
「さて」
商人は肩をすくめた。
「途中で誰かが多く買ったのかもしれない。そもそも遠くから来る量が減ったのかもしれない。船が沈んだのかもしれない。海賊に取られたのかもしれない」
分からない、と言いながら、何も知らない者の言い方ではなかった。
フィクスは少し考えた。
「あなたは、どこを回ってここへ?」
「今回はキプロスからクレタへ。それからこちらへ」
「この後は?」
「風と商い次第です」
「アスファリアへは?」
商人の目に、かすかな警戒が浮かんだ。
「行くこともございます」
フィクスはそれ以上そこを追わなかった。
王家の直轄港について、王子がフェニキア商人へ尋ねる。相手が身構えるのは当然だった。
「では、クレタでは何がよく売れていました?」
問いを変えると、アブディミルクの表情が少し緩んだ。
「場所によりますな。油を欲しがる者もいれば、良い葡萄酒を欲しがる者もいる。羊毛や布も動く。しかし――」
商人はフィクスが持ってきた壺を軽く叩いた。
「油はどこにでもある」
フィクスは目を細めた。
「エリミオンだけの品ではないから?」
「ええ。良い油なら売れます。しかし、油であるだけでは珍しくない。クレタにもある。こちらにもある。海の向こうにもある」
それは重要だった。
「では、あなたなら何を欲しがります?」
「この土地から?」
「はい。次に来たとき、何があれば買いたいと思うか」
アブディミルクは即答しなかった。
港へ目を向ける。
「良い油なら買います。良い葡萄酒も。よく織られた布も。それから、私がほかの港へ持っていって売れるもの」
「最後の条件が一番大事ですか」
商人は笑った。
「私も食べていかなければなりませんので」
「何が売れるかは、港によって違う?」
「違います。季節でも違う。去年よく売れたから今年も売れるとは限らない」
「それを知るために、あちこちの港で話を聞く?」
「話も聞く。見ることもする」
アブディミルクは顎で周囲を示した。
「船から何が下ろされているか。倉庫に何が余っているか。誰が何を探しているか。値が上がった品は何か。船乗りはどこから来たか。そういうものを見ていれば、次に何を積むべきか分かることもございます」
ジェミニが判断は間違いなかったようだ。
この男は品物だけを運んでいるのではない。
港から港へ移るたびに、そこで見聞きした情報まで持っていく。
「次にナバルノへ来たときも、あなたを探していいですか」
「もちろん。次も油をお持ちいただけるなら」
「そのときは、もっと面白いものを持ってこれるように努力しますよ」
「それは楽しみです」
二人とも笑った。
フィクスは軽く頭を下げ、アリタたちとその場を離れた。
しばらく歩いて、人混みに紛れてから左手首へ意識を向ける。
(ジェミニ)
『うん』
(ありがとう。良い商人に出会えた)
『どういたしまして』
一人から聞いた話を事実と思い込むつもりはなかった。別の商人にも聞けばいい。次に来る船にも、その次の船にも。色々な商人から様々な角度からの情報を集めて分析すれば、その価値は上がる。
傭兵たちを村へ送り、土地の情報を集めさせているのと同じだった。
港なら、海の向こうの情報を集められる。
フィクスはアリタが持つ小さな錫の塊を見た。




