037 ナバルノ港②
地元の男が壺を傾け、指先へ油を落とす。それを異国の商人が指で擦り、匂いを嗅いだ。
何か言う。
地元の男が首を振る。
商人は小箱から青い玉を三つ取り出して掌に載せた。陽を受けたそれは石とも陶器とも違う光沢を帯びている。地元の男は一つ摘まみ上げ、しばらく眺めてから二つを指で示した。
商人が首を振る。
今度は男が壺を指す。
しばらくやり取りが続き、最後には商人が青い玉を戻して、別の箱から小さな金属製品を取り出した。
フィクスは足を止めた。
「リュサンドロス」
「はい」
「あれは何をしているんだ?」
リュサンドロスはフィクスの視線を追い、すぐに答えた。
「品物を取り替える相談でしょう」
「それは分かる。何と何を交換しようとしているのか知りたい」
「聞いてまいりましょうか」
「頼む」
「かしこまりました。壺をお願いします」
リュサンドロスは提げていたオリーブ油の壺を護衛とフィクスの足元に置く。
リュサンドロスは人の間へ入っていった。
王子が直接近づけば、取引を邪魔することになる。相手が地元の者ならなおさらだ。だが、年嵩の使用人が話を聞く程度なら、さほど警戒されないだろう。
その間にも周囲では、いくつもの取引が行われていた。
(ジェミニ、周囲の取引の様子を聞いておいてくれ。交換の相場や、どの商人がどんな商売をしているかを知りたい)
フィクスは左手首のジェミニに頼む。
『了解、感度を上げてなるべく広く情報を集めておくね』
葡萄酒を持ってきた者が、小さな装身具を手に取っている。別のところでは羊毛らしい束の前に金属の針が並べられ、女が一本ずつ指先で確かめていた。布を広げて見せている者もいる。
どれも王宮の倉庫で見てきた物資だった。
油。葡萄酒。羊毛。織物。リネン(亜麻)。
粘土板の上では、それぞれ数量が記され、どこから入り、どこへ出されたかを管理される。
だが、目の前では違った。
人が品物を持ってきて、欲しい物を見つけ、自分の持っている物と釣り合うかを相手と相談している。
リュサンドロスが戻ってきた。
「フィクス様」
「どうだった?」
「油と青い玉を交換するところだったそうです。あちらの青いものは、フェニキア人が持ってきた品だそうで」
「さっき途中で別の物を出していたね」
「はい。最初に出した数では油の持ち主が納得せず、商人もそれ以上は出したくなかったようでございます。それで別の品を加えて話をまとめたようです」
「なるほど」
フィクスはもう一度二人を見る。
話は終わったらしい。地元の男が小さな品を布へ包み、フェニキア人の側では油の壺を仲間が運び始めている。
「こういう取引は多い?」
「珍しくはございません」
「油だけ?」
「いいえ。葡萄酒や羊毛、布などもございます。蜂蜜や革を持ってくる者もおります。漁の時期でしたら魚を干したものも」
「向こうからは?」
リュサンドロスは少し考えた。
「今のような玉や飾り物、針などの金物でございますな。異国の色をつけるものや香りのするものを欲しがる者もおります。銅や青銅を持ってくる商人もおります。大きな取引であれば、金や銀を使うこともあります」
フィクスは港を見回した。
なるほど。
王宮経済しか知らなければ、外国との交易とは王や領主が大量の物資を動かすものだと思ってしまう。実際、アスファリアでは王室が海外交易を押さえている。だが、中央から遠く地方自治の色が強いエリミオンでは、目の前でずっと小さな交換が行われていた。
「毎回、ここで初めて会った相手と交換するの?」
リュサンドロスは首を振った。
「そうとは限りません」
「というと?」
「馴染みの商人を待つ者もおります」
フィクスはリュサンドロスへ顔を向けた。
「待つ?」
「はい。毎年こちらへ来る船もございますので」
それは少し面白い。
「詳しく聞きたいな」
「たとえば、油を多く作る家がございます。前に来た商人と話をつけておいて、次に来るまでにこれだけの油を用意しておく。商人の方も、欲しいと言われた品を次の航海で持ってくる。そのようなことはございます」
「今日会って、今日交換するだけじゃないんだ」
「はい」
フィクスは黙った。
もう一度、先ほどの二人を見る。
物々交換という言葉から思い浮かべていたものとは、少し違う。
欲しい物と欲しい物が偶然一致した者同士が、その場で交換して終わるだけではない。
一度取引する。
次にまた会う。
約束した物を互いに用意しておく。
約束どおり持ってくれば、次も取引する。
その繰り返し。
「約束したのに、次に持ってこなかったら?」
「それは……相手にされなくなるでしょうな」
リュサンドロスは当然のことのように答えた。
「では、良い油を持ってくると言って悪い油を持ってきたら?」
「同じことでございます。フェニキア人も商いで来ておりますから」
フィクスは小さく頷いた。
貨幣がないから、信用がないわけではない。
むしろ逆なのかもしれない。
貨幣という共通の尺度がなければ、誰と取引するか、相手が約束を守るか、持ってくる品が確かなものかということの重みは大きくなる。
「リュサンドロス」
「はい」
「もう少し聞いてきてもらってもいい?」
「何をお聞きしましょう」
フィクスは少し考えた。
「毎年来るフェニキア商人がどれくらいいるのか。地元で、その人たちと長く取引しているのはどんな人たちなのか。それから――」
視線を港へ戻す。
「次に何を持ってくるか、前もって約束している取引がどのくらいあるのか知りたい」
リュサンドロスは少し意外そうな顔をした。
「品物ではなく、人をお知りになりたいので?」
「両方かな」
フィクスは答えた。
「誰が何を欲しがって、何なら次の航海まで待ってくれるのかも」
「承知いたしました」
フィクスは足元のオリーブ油の壺を持ち上げながら言う。
「私達もそのへんを見て回ってくる。後で、この場所で落ち合おう。せっかくだし、何かと交換してみるよ」
「分かりました」
リュサンドロスは王子が自ら壺を提げたことに少し驚きながらも、返事をしてから歩き出す。
その背を見送りながら、フィクスは港の雑踏を眺めた。
「じゃあ、行こう」
「はい、フィクス様」
アリタは当然のようにフィクスから壺を取り上げて、答えた。
女性に荷物を持たせるのは抵抗があるが、自分が王子であることを思い出し、仕方なくアリタのしたいようにさせて、フィクスは港の奥へと歩き出した。




