035 調査開始
窯場から戻って、数日が経った。畑の様子を見に行く。
葡萄の根元には、数日前に敷かせた刈草がまだ残っている。何もしていない株の周囲では表土が白っぽく乾いていたが、刈草を少し持ち上げて指を入れると、その下にはまだ湿り気があった。
「こちらのほうが湿っております」
記録を任せている書記官が言った。
「今のところは、ね」
フィクスは土を指先で擦り、立ち上がった。
「葡萄の育ち方に違いが出るかは、まだ分からない。雨が降った後も見ておいてください」
「承知いたしました」
少し離れた場所では、家畜の糞と敷藁、刈草を積んだ山ができていた。近づけば当然臭うが、積み始めた頃とは少し違う。書記官の記録では、驚くほど熱くなった日もあったらしい。
こちらも急ぐ必要はない。
秋まで時間をかければいい。
窯場ではエウメロスが便器を試作している。
畑では葡萄やオリーブ、野菜を使った対照試験が続き、その横では秋に使うための堆肥が作られている。
一つずつなら、どれも小さな試みだった。
だが、それでよかった。
フィクスは畑から政庁へ戻りながら、乾いた道の向こうへ目をやった。五月の空は青く、今のところ雨が少ないというほどでもない。この土地の人間にとっても、今年が特別な年には見えていないだろう。
転生する前に、アカイア文明を襲う破局について調べた。原因を一つに決めることはできない。恐らく長期的な乾燥と干ばつに端を発する内乱、戦乱、交易網の断絶、地震――。
だからといって、雨を降らせることはできない。
雨が減っても生き残れる方策を探すしかなかった。
政庁の中庭では、傭兵たちが待っていた。
アグリオン村から来た男たちは、以前フィクスの一行を襲ったときとはずいぶん違って見える。武器を持っていることに変わりはないが、今日は戦うために集めたわけではない。その腰や荷には、数枚の蝋板と尖筆、それに旅のための食料が加わっていた。
「二人ずつで行ってもらう」
フィクスは集まった男たちを見回した。
「練習してもらった野帳の書き方は覚えているね」
何人かが頷く。
窯場への往復で一人に実際に書かせ、その後も政庁の周囲で練習させていた。まだ書記官のように文字を扱えるわけではないが、道筋を線で示し、村、水場、坂、分かれ道などを決めた記号で残すことはできるようになっている。
「今回調べてもらうのは、道だけじゃない」
フィクスは傍らに置いていた小袋を手に取った。中には塩が入っている。そのほかにも、持たせる荷には布や油、小さな青銅製品が用意されていた。
既に、調査を行う傭兵達には言い聞かせてあるが、出発前にもう一度、念を押す。
「村へ着いたら、老人に話を聞いてくれ。農民にも、羊飼いにも。葡萄を作っている者がいれば、その人にも聞いてほしい」
「その村で一番古いオリーブの木はどれか。ひどい日照りの年にも実をつけた木がなかったか。乾いた斜面なのに、毎年よく実る葡萄はないか。そして、洞窟について」
「麦もだ。土地によって違うものを育てているなら知りたい。コトナで育てているものと違う麦、山間の畑で作る麦、雨の少ない土地でも育つ麦、早く実る麦。それと大麦も見てきてくれ」
「分けてもらえるなら、種を少し買ってきてほしい。勝手に取るなよ」
何人かが笑った。
「そのための品物だ。食事や宿を頼むのにも使っていいし、話を聞かせてもらった礼にしてもいい。珍しい種を分けてもらえるなら、それとの交換にも使ってくれ」
フィクスは男たちの荷へ視線を移した。
「ただし、交換した相手と、何を渡して何を受け取ったかも野帳へ残してくれ。喜んで交換に応じたのかも知りたい。記号で書けないところは、帰ってから話してくれれば書記官に記録させる」
フィクスは中庭の端にある水甕へ目をやった。
「もう一つ、水を見てほしい。泉だ。特に、夏でも水がなくならない泉があれば必ず記録してくれ。村の者が『昔から枯れたことがない』と言う泉があれば、その話も聞いてほしい」
「水の量もですか?」
一人の傭兵の問いに、フィクスは少し考えた。
「測れるなら知りたい。でも、無理に数字にしなくていい。人が何人くらい使っているか、家畜にも飲ませているか、夏になると細くなるのか。そのあたりを聞いてくれればいい」
老人なら、父や祖父から聞いた昔の日照りを覚えているかもしれない。羊飼いなら農民が入らない谷や山腹の水場を知っている。農民は、同じ畑の中でもどの麦が先に実り、どの株が乾きに強いかを見ている。葡萄を育てる者なら、誰も気に留めない一本の古木を知っているかもしれない。そうした今まで粘土板に記録されなかった情報を集める必要がある。
「フィクス様」
それまで少し離れて荷を確認していたアリタが声をかけた。
「準備が整いました」
「ありがとう」
二人一組に分かれた男たちは、それぞれ違う方向へ向かうことになっている。一度に遠くまで行かせるつもりはなかった。最初はコトナから数日で往復できる範囲を調べさせ、問題があれば修正してやり直す。
「危ない場所には入らなくていい」
出発を前に、フィクスは最後に付け加えた。
「調べるために人を失うつもりはない。知らない道では地元の者に聞け。揉め事が起きそうなら引け。種も泉も、命を賭けて持ち帰るようなものじゃない」
傭兵達が頷いた。
「じゃあ、頼む」
男たちは門を出ていった。
フィクスはしばらくその背中を見送っていた。
左手首のバングルから、ジェミニの声が頭の中へ届く。
『ずいぶん地味な文明救済活動よね』
「いいんだよ、これで、まだ始まったばかりだ」
『英雄が神託を受けて大工事、とかじゃなく?』
「今使えるのは、王子という肩書と割り当ての物資だけだからね。少しずつ仕組みを作るしかないよ」
今できることを積み重ねる。
畑では試す。
窯では作る。
人を歩かせ、土地を調べる。
そして、結果を記録する。
『民に大号令ってタイプじゃないものね』とジェミニは笑う。
「そういうこと」
「とても、マスターらしいと思います」とアリタ。
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管理棟の一室には、アリタと相談しながら作らせた大きな板が置いてある。まだ描かれているものは少ない。コトナと港、周辺の村、窯場へ向かった道、途中で確認した水場だけ。正確な地図というには、あまりにも空白が多かった。
それでも、窯場まで歩いて作った最初の野帳から、道筋の一本がすでに加わっている。これから、少しずつ書き加えられていくはずだ。
道。
村。
泉。
畑。
古いオリーブ。
乾いた斜面の葡萄。
変わった麦を作る土地。
フィクスはその板の前に立ち、しばらく眺める。




