034 三男の申し出
扉を叩く音がした。
フィクスは返事をしなかった。
こんな時間に誰だろう。
窯場の長の家に泊めてもらっている以上、訪ねてくる者がいても不思議ではない。だが、夕食はとうに終わっている。用があるなら食事の席でも話せたはずだった。
フィクスは寝台の傍らに置いていた剣を取り、音を立てないよう扉の横へ移った。
(ジェミニ)
『うん』
(何かあったら、身体を頼む)
『了解。いつでも代われるよ』
左手首から返ってきた声を確認してから、フィクスは剣を鞘に収めたまま右手に持った。
「どうぞ」
声をかけると、少し間を置いて扉が開いた。
「夜分に失礼いたします」
入ってきたのは、見覚えのある若い男だった。
今日、窯場を案内してくれた陶工の一人で、窯場の長の三男、エウメロスである。
見知った顔に、フィクスは剣を持つ手から力を抜く。
「何か、用ですか」
「少し、お話したく……」
「どうぞ」
フィクスは部屋に入るよう促す。
エウメロスが室内へ入り、扉を閉める。フィクスは剣を元の場所へ戻すと椅子を示した。
「座ってください」
「はい」
エウメロスが腰を下ろすのを待ってから、フィクスも向かいへ座った。
何かを言うために来たのは間違いないが、それをどう切り出すか決めかねているようだった。
フィクスは急かさなかった。
やがてエウメロスが口を開いた。
「フィクス様。昼間のお話ですが」
「便器ですか」
「はい」
そこで一度息を吸い、フィクスをまっすぐ見た。
「あれを、私に作らせていただけませんでしょうか」
フィクスはすぐには答えず、エウメロスの顔を見た。
昼間の陶工たちの反応を考えれば、単に仕事が欲しいというだけではないだろう。
フィクスは沈黙で先を促す。
「今朝の後、皆で話しました。あの大きさを一つの器として作るのは容易ではありません。乾かす途中で歪むかもしれませんし、焼けば割れることもございます。ですが、作れぬものではないと思います……」
「しかし、食物や水を入れる甕、酒を飲む杯、神々へ供える器を焼く窯で、人の汚物を受ける器を焼く。そのことを嫌う者がおります。窯場の者だけではございません。それを知った者がどう思うかも分かりません」
フィクスは黙って聞いていた。
自分にとっては、清潔に使えるなら便器も立派な生活道具である。しかし、それは自分の感覚だ。この土地で陶工や人々がどう受け取るかは別の問題だった。
エウメロスは続けた。
「私は、誰もやりたがらぬのであれば、機会であると思いました」
「機会ですか?」
答えは早かった。
「私は三男です」
その一言で、話の輪郭が少し見えた。
「父の窯を継ぐのは兄です。兄に何かあれば次兄がおります。私はここに残れば、これからも兄の窯で働く陶工です」
不満を訴える口調ではなかった。
この土地では珍しくもないことなのだろう。窯も、道具も、職人たちとの関係も、無限に分けられるものではない。長の息子だからといって、三人がそれぞれ同じものを受け取れるわけではない。
「自分の窯を持ちたい?」
「はい」
エウメロスは迷わなかった。
「腕には自信がございます。ただ、腕があれば窯を持てるわけではありません。窯を造り、薪を集め、粘土を用意しても、注文する者がいなければ続けられません」
そこで彼は、わずかに身を乗り出した。
「ですから、お願いがございます。まず、あの便器を私に作らせてください。フィクス様が満足なされるものを作ることができましたら、その後は私をフィクス様の専属の陶工としていただきたいのです」
フィクスはそこで初めて眉を動かした。
「専属?」
「はい」
エウメロスは目を逸らさなかった。
「私にも賭けになるのです」
「便器を作ることが?」
「それを作った陶工だと知られれば、嫌う者がいるかもしれません。今までと同じように杯や甕を注文してもらえるとは限りません」
朝の空気を思い返す。
陶工たちが揃って話を逸らしたのは、単なる気分の問題ではなかったらしい。
「それほどの危険があるなら、お父上が許さないのではありませんか」
「父とは話しました」
「もう?」
「はい。皆が引き受けぬことを確かめた後で、私から申し出ました」
エウメロスの表情に、ほんの少しだけ若者らしい強さが浮かんだ。
「ただ便器を作るだけなら、父も許さなかったと思います。しかし、それによってフィクス様の専属となる道が開けるのであれば、話は違うと」
「危険に見合う、と?」
「はい」
なるほど。
長男が窯を継ぐ。次男もその後ろにいる。三男まで同じ窯に置いておくより、王子との関係を足掛かりに独立できるなら、一族にとって別の道ができる。長にとっても悪い話ではない。
もっとも、エウメロスの望む「王子の専属」という言葉を、そのまま受け入れるわけにはいかなかった。
(ジェミニ。どう思う?)
『面白いんじゃない?それに、この人に色々と試してもらうのはよさそう』
フィクスも同じことを考えていた。
新しい形の器を嫌がらず、図面にも強い関心を示し、何より自分から危険を取ってここへ来た。
今までに無い知識を教える相手としては、悪くない。挑戦する意欲と受け取るだけの柔軟性が有りそうだ。
フィクスはエウメロスへ向き直った。
「話は分かりました。ただ、私からも言わなければならないことがあります」
「お聞かせください」
「私はコトナへ赴任したばかりです」
フィクスはゆっくりと言葉を選んだ。
「王子ではありますが、好きなだけ物を作らせられるわけではありません。あなた一人を養えるほどの注文を、これから毎月出すと約束することもできない」
エウメロスは黙って聞いている。
「それに、今すぐあなたのために新しい窯を造ることもできません。ですから、専属というよりは、御用達し、指名の職人というところです」
「その代わり、私にはあなたへ渡せるものがあります」
エウメロスの目が動いた。
「王宮にいた頃、粘土板で作陶について読んだことがあります」
何か新しいことを始めるときの、いつもの言い訳だった。
「今のあなたたちが使っている方法とは違うものもあった。私自身は陶工ではないから、知っているだけでは器にはできません。でも、あなたには腕がある」
昼間、窯場を歩いて分かったことがある。
自分は完成した知識を持ち込んで命じればよいわけではない。この土地の粘土も、薪も、窯も知らない。知識を実際の形にするには、それを扱える人間が必要になる。
「私が王宮の粘土板で得た知識を渡す。あなたが、それをこの土地の粘土と窯で試す。うまくいかなければ、なぜ駄目だったかを二人で考える」
エウメロスはじっとフィクスを見ていた。
「今までにないものを作れるかもしれません。便器だけではなく、もっと別のものも」
フィクスは一度言葉を切った。
「まず便器を作ってください。私が満足できるものができたなら、あなたを私の御用達し、指名の職人にします。ただし、当面は今までどおり、この窯場で仕事を続けてもらうことになる。独立した窯を持たせられるかは、その先の話です。まとまった注文を定期的に出すとも、今は約束できません」
それでもよければ。
そう続けようとしたところで、エウメロスが答えた。
「それで結構です」
迷いはなかった。
「よろしいのですか」
「はい。今のままここにいても、父の窯は私のものにはなりません」
エウメロスは卓の上に置かれた、布に包まれた模型へ目を向けた。
「誰も作りたがらぬものを作ることで、フィクス様から仕事と知識をいただける可能性がある。それだけでも、私には十分な機会です。それに――」
少しだけ間を置く。
「今朝見せていただいた模型と図を見て、フィクス様が次に何を作ろうとなさるのか、知りたいと思いました」
フィクスはその言葉を聞いて、わずかに口元を緩めた。
「分かりました」
今度は、はっきりと答えた。
「では、お願いします。エウメロス」
「はい」
「まずは便器を一つ。そこから始めましょう」




