032 野帳
窯場へ向かう朝、フィクスが居館を出ると、すでに出発の支度はほとんど整っていた。
中庭には一頭の馬が引き出され、その背には一泊分のフィクスの荷物と、道中で必要になる水や食料が括りつけられている。フィクス自身が乗るための鞍もついていたが、今日のところは荷馬と変わらない。レオンと二人の護衛、それに今回同行させるエルド山地の傭兵は、それぞれ自分の荷を背負って待っていた。
見送りにはメネステウスのほか、管理棟から何人かの書記官も出てきている。その少し後ろにアリタが立っていた。
「では、フィクス様。くれぐれもご無理はなさいませんよう」
「分かっています。予定どおり窯場で一泊して、明日戻ります」
「道中につきましては、そちらの者が承知しております」
メネステウスが護衛の一人へ目を向ける。以前にも何度か窯場まで往復したことがあるという男だった。
「何かございましたら、その者の判断もお聞きください」
「そうします」
フィクスが頷くと、メネステウスは一礼した。
これで出発となるはずだった。
「フィクス様」
アリタが声をかける。
振り向くと、彼女は両手に小さなものを持っていた。一つは手のひらより少し大きな板、もう一つは細い尖筆だった。板は蝋板だった。
指先で蝋の表面を確かめる。粘土板ほど重くなく、歩きながら記録するにはこちらの方が都合がいい。書き損じても表面を均せば使い直せる。
「レオン。みんなも、ちょっと集まってくれる?」
出発しようとしていた四人が顔を見合わせ、それでもすぐに寄ってくる。メネステウスたちも、何が始まるのかとその場に残った。
フィクスは蝋板を見せた。
「今日、窯場まで歩くのは、道を見るためでもあると言ったね」
「はい」
レオンが答える。
「ただ歩いて覚えるだけだと、後になって曖昧になる。だから、見たものを途中で記録していこうと思う」
フィクスは尖筆の先を蝋板へ当てた。
「たとえば、ここを出た時刻。どちらへ進んだか。どのくらい歩いたところで道が分かれたか。坂になった場所、道が狭くなった場所、水のある場所。橋があれば橋、村があれば村。荷車が通れそうか、ロバなら通れるか――そういうものを、歩きながら順番に残していく」
護衛の一人が蝋板を覗き込んだ。
「道を書き写すのでございますか?」
「正確に写す必要はないよ」
フィクスは首を振った。
「大事なのは、後でこれを見たときに、実際に歩いていない者にも道の様子がある程度分かることだ」
少し考え、尖筆で一本の線を引いた。
「道がこう曲がったなら、曲がったことを残す。途中に川があったなら、その位置も書く。ただし、見たものを何でも書けばいいわけじゃない。必要なものを選ばないと、かえって分かりにくくなる」
そこでフィクスは傭兵へ視線を向けた。
「特に、君には覚えてもらいたい」
名を呼ばれた傭兵が姿勢を正した。
「これからエルド山地の者たちには、コトナの周囲を調べる仕事もしてもらうつもりだ。道や水場、村、使われていない小道、山へ入れる場所。そういうものを見て戻ってきても、口頭の報告だけでは細かなところまで残らない」
エルド山地を歩いてきた者なら、道を見ることそのものには慣れているだろう。
だが、自分が分かることと、他人に分かる形で残すことは違う。
「調査に出た者がこれを書いて持ち帰れば、別の者も使える。次に同じところへ行くときにも役に立つ」
傭兵は蝋板を見つめていた。
「俺たちにも、これを書けるようになれと?」
「そういうことになる。ただ、いきなり書けと言っても難しいだろう」
フィクスは蝋板を持ち直した。
「最初はまず俺が書く。何を見て、何を残すのか。どんなところでは立ち止まって確かめるのか。それを見て覚えてほしい」
レオンが尋ねた。
「その後は?」
「途中から君たちにもやってもらう」
フィクスは当然のこととして答えた。
「同じ道を見ても、人によって気づくところが違うはずだからね。書いたものを後で見比べれば、何を残した方がいいのかも分かる」
最初から完成したやり方を押しつけるつもりはなかった。
そもそも、この土地を歩いて調べるために何を記録すれば十分なのか、フィクス自身にもまだ分からない。王宮の粘土板で読んだ知識と、実際に山野を歩いて必要になるものが同じとは限らなかった。
「今日は窯場まで行くだけだから、練習にはちょうどいい。道を知っている人もいる。間違えても確かめられるからね」
そう言ってから、フィクスは傭兵を見る。
「いずれ君たちだけで調査へ出てもらう。そのときには、自分たちでこれを作って帰ってきてもらいたい」
「分かりました」
今度の返事には迷いがなかった。
これは、未来でいうところのボーイスカウトの「野帳」だ。周囲を調査してどのように記録するかを考えていたときにジェミニに概念を教えてもらい、蝋板と尖筆を使うことや記入する色々な記号も一緒に考えてもらった。
「よし。じゃあ、最初は見ていて」
フィクスはそこでようやく皆を解散させた。
顔を上げると、メネステウスと書記官たちがまだこちらを見ている。
「お待たせしました」
「いえ」
メネステウスはフィクスの手にある蝋板へ一度目を落とした。
「道をご覧になるというのは、そのような意味でもございましたか」
「まずは練習です。役に立つかどうかは、何度か使ってみてから考えます」
そう答えて、フィクスは改めてメネステウスへ向き直った。
「では、行ってきます。留守をお願いします」
「承知いたしました。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
フィクスは頷き、今度こそ門へ向かった。
馬の手綱を護衛の一人が取り、レオンたちが続く。
門を抜けたところで、フィクスは一度振り返った。
メネステウスたちはまだそこにいる。アリタも同じ場所に立ち、こちらを見送っていた。
フィクスは軽く手を上げると前へ向き直った。
朝の道を歩き始める。
まだ政庁の壁が背後に見えているうちに、フィクスは蝋板を左手に持ち、尖筆を当てた。
最初に記すことは決まっていた。
出発した時刻と、進み始めた方角。
窯場までの道を知るための記録は、コトナの門前から始まった。




