030 王子の農業改革
割り当てられた畑は、コトナの政庁からさほど離れていなかった。
緩やかな斜面に葡萄畑が広がり、その先には間隔をあけてオリーブの木が並んでいる。野菜を育てている小さな畑も近くにあり、麦畑はすでに穂を伸ばし始めていた。五月の日差しはまだ耐え難いほどではなかったが、空はよく晴れ、土の表面は白っぽく乾いている。
フィクスが頼んだのは、特別に良い畑ではなかった。むしろ普段と変わらぬ場所でなければ困る。比較する以上、最初から条件の違う土地を並べても意味がない。
もっとも、その意図が周囲に理解されているかは別だった。
畑には担当の書記官と作業をする男たちだけでなく、メネステウスまで来ていた。それだけならまだ分かるが、仕事の担当ではない書記官も二人ほど混じっている。赴任したばかりの王子が畑を欲しがり、何か始めるらしいとなれば、気になるのだろう。
フィクスは彼らを咎めなかった。いずれ何をしているのか知れ渡るのだから、最初から見せておいたほうが話は早い。
「麦には触れません」
最初にそう言うと、麦畑へ向いていた作業者たちの視線が戻ってきた。
「もう育っています。ここで耕し方を変えたり、何かを混ぜたりすれば、かえって収穫を損ねるかもしれない。麦で試すのは秋に播くものからにします」
担当書記官が頷き、手にしていた粘土板へ印を刻んだ。フィクスはそれを確かめてから葡萄畑へ向かった。
今回試すのは、もっと単純なことだった。
ダンジョンコアから超知性に進化した左手首のジェミニと相談の上、無理の無い範囲で農業技術を導入することにしている。
「同じような葡萄をいくつか選んでください。一つは今までどおり。こちらには刈った草や藁を根元の土へ敷く。こちらは少し厚くする。それから、もう一つには敷いたうえで、水が斜面を流れ落ちにくいよう小さな土手を作ります」
作業者の一人が足元を見た。フィクスもしゃがみ、乾いた表土を指で崩してから、その下を少し掘った。表面ほどではないが、こちらにも乾燥は進んでいる。
「雨が降っても、全部が土へ入るわけではありません。斜面なら流れてしまう水もある。それに、日が照れば土から水が失われます。だから流れ去る水を少しでも畑に残して、土から逃げる水も減らしてみます」
言いながら立ち上がり、手についた土を払う。
「ただし、全部の葡萄にやってはいけません」
今度は書記官を見た。
「何もしないものを必ず残してください。やったものだけ見ても、それが良かったのか、その年の雨が良かっただけなのか分からないでしょう」
書記官は一瞬考え、それから粘土板へ視線を落とした。
「比べるため、でございますか」
「そうです。同じ場所で、同じ時期に、今までどおり育てたものと並べます。オリーブも同じようにしてください。ただ、木ごとの違いが大きいでしょうから、なるべく育ち方の似たものを選んでください」
そこでフィクスは野菜畑へ歩いた。こちらのほうが結果を見るには都合がいい。根の周囲へ刈草や藁を敷いた場所と、何もしない場所を隣り合わせにすればよい。
「ここは数日おきに土を掘って確かめてください。深くなくていい。同じくらいの深さで、刈った草や藁を敷いたところと敷いていないところを比べる。雨が降った日、土がどのくらい湿っていたか、それから作物の様子も記録してください」
「毎回、粘土板に?」
「残してください。覚えているつもりでも、一月、二月と経てば曖昧になります」
書記官が神妙に頷く。その横では、作業者たちがまだ少し戸惑った顔をしていた。難しいことを命じられたわけではない。刈草や藁を敷き、小さな土手を作るだけである。
見物に来ていた書記官の一人も同じことを感じたらしい。隣の者と目を合わせた。その表情には、口にこそ出さないものの、**それだけなのか**という色が浮かんでいた。
フィクスにも分かったが、気にしなかった。
最初から大勢の人間を動かして大工事をするつもりなどない。効果があるかどうかも確かめず、王子の命令だけで何十枚もの畑を掘り返すほうがよほど危うい。
「それから、もう一つ始めます」
今度は畑ではなく、政庁や家畜施設のある方角を指した。
「家畜の糞は集められますね」
「はい」
「それに、汚れて使えなくなった敷藁、刈った草を混ぜます。捨てているものを優先してください。食べられるものや、まだ飼料に使えるものまで入れる必要はありません」
作業者たちの表情がわずかに変わった。こちらは畑仕事というより、糞の始末の話に聞こえたらしい。
「積む場所を決めます。雨水が溜まるような窪地は避けてください。乾きすぎても困るので、様子を見ながら水分を保つ。ときどき中と外を入れ替えるように積み直します」
「糞を、積み直すのでございますか」
年嵩の作業者が思わず聞き返した。
「そうです」
フィクスは平然と答えた。
「しばらくすると熱を持ちます。匂いや色も変わるはずです。それを見たい」
そして担当書記官へ向き直る。
「こちらも記録してください。いつ積んだか、何を入れたか、積み直した日。そのときの匂い、色、中が熱かったかどうか。正確な数字にできないものは、見たとおりを書けばいい」
「畑ごとの記録とは別にいたします」
「そのほうがいいでしょう」
書記官が答えるのを待ってから、フィクスは念を押した。
「ただし、できたものを今の麦畑へ撒いてはいけません」
何人かがフィクスを見た。せっかく作るのに使わないというのが、かえって奇妙だったらしい。
「これはすぐ畑へ入れるためのものではありません。夏の間、変化させます。十分に変わったものを、秋に播く小麦と大麦の畑で試します。そのときも全部には使わない。使わない場所を残して、同じように育てて比べます」
そこまで説明すると、作業者の一人が積み場所を確かめ、もう一人が必要な藁について書記官に尋ね始めた。話が実際の仕事へ移ったのを見届けて、フィクスは彼らに任せることにした。
見物人たちが期待していたような、王子の大号令はなかった。
新しい水路を掘るわけでもなければ、大勢の農民を集めるわけでもない。畑の一部へ藁を敷き、土を少し盛る。糞と草を集めて積む。そして書記官に細かな記録を取らせる。
それだけだった。
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王子の説明が終わり、メネステウスと書記官達はコトナの管理棟に戻った。
「……思っていたものとは違いましたな」
見物に来ていた書記官が、ようやく口にした。
「私もです」
担当書記官が粘土板を抱え直した。
「もっと畑を掘り返すようなことを命じられるかと思っておりました」
「私は新しい水路を作れとか言われるのではないかと思っていた」
別の書記官が苦笑する。王子が地方へ赴任し、農地を割り当てさせたと聞けば、何か大きなことを始めたがっていると考えるのも無理はなかった。
メネステウスは葡萄の根元へ置かれ始めた刈草を眺めた。
「麦に手を出されなかったのは助かりました」
収穫を控えた麦を、思いつきでいじられることを彼は何より警戒していた。しかもフィクスは、試す場所より先に、何もしない場所を決めさせた。
「しかし、あれで何か変わるのでしょうか」
若い書記官が尋ねる。
「分かりません」
メネステウスはあっさり答えた。
「だから殿下――フィクス様も、比べるのでしょう」
口にしてから、少し考える。
妙なことをする王子ではある。だが、自分の思いつきが正しいと決めつけているわけではないらしい。少なくとも今日の命令で失われるものは、多少の藁と刈草、それに作業者の手間くらいだった。糞を集めることにしても、畑へ撒くのは秋になってからで、それまで記録を取って様子を見るという。
「まあ……」
メネステウスは、そこでようやく肩の力を抜いた。
「この程度なら、こちらの仕事をひどく引っ掻き回されずに済みそうです」
何人かが同意するように頷いた。
「しばらく、様子を見ましょう」
結局、それがその場にいた者たちの一致した結論になった。
王子が何を始めるのかと警戒して見に来た彼らにとって、その日の一番大きな収穫は、藁を敷けば土の水が残るかもしれないという話でも、糞と草を積めば何かに使えるようになるという話でもなかった。
少なくとも新しい管理人は、赴任早々、コトナ中の畑を自分の思いつきで掘り返すような少年ではない。
今のところは、それで十分だった。




