029 コトナの運営、小さな試し
翌朝、フィクスは朝食を済ませると、アリタを伴って管理棟へ向かった。
昨日は到着したばかりということもあり、建物の中を詳しく見る余裕はなかった。改めて入ってみると、居館とは空気が違う。人の出入りが多く、壁際には籠や封をした容器が置かれ、奥では書記らしい男たちが粘土板を前に仕事をしている。ここでは王子が来たからといって日々の仕事が止まるわけではないらしい。
メネステウスは奥の一室で待っていた。
「おはようございます、フィクス様。昨夜はよくお休みになれましたでしょうか」
「ええ。おかげさまで。今日はよろしくお願いします」
勧められた席につくと、アリタは少し離れたところに控えた。机の上にはすでに何枚もの粘土板が用意されている。
まずはメネステウスにコトナについての概要を求める。
コトナに属する土地と集落。耕地の大まかな広がり。そこで作られている穀物や葡萄、オリーブ。羊や山羊。倉へ入るものと、そこから出されるもの。王宮へ送るもの。働く者たちへ渡すもの。種として残しておくもの。
フィクスは途中で何度か尋ねたが、細かな数字を一つずつ確かめることはしなかった。
王宮で読んだ粘土板と同じ数字もある。
だが、こちらで聞くと意味が違って見えた。
ある畑の収穫が少なかったという記録の後ろには、水の少ない土地だからという事情がある。羊の数が減った年には、冬に弱ったものを多く失ったという話がつく。倉から出された穀物も、単なる支出ではなく、働く者へ渡されたものだったり、悪くなったものの廃棄だったり、次の作付けのために残されたものだったりする。
数字の向こう側に、人と土地があった。
「――大きなところでは、そのようになっております」
一通り話し終えたメネステウスが言った。
「細かなことにつきましては、それぞれを預かる者から直接お聞きいただいた方がよろしいかと存じます」
「そうだね。今日はまず、大まかに全体が分かれば十分です」
「メネステウス」
「はい」
「コトナの日々の運営は、これまでどおりあなたに任せたいと思っています」
メネステウスがわずかに姿勢を正した。
「私が来たからといって、今までのやり方を急に変えるつもりはありません。何か変えるとしても、まず私自身がここを知らなければならない」
「承知いたしました」
「ただ、しばらくは色々と尋ねると思います」
「それはもちろんでございます」
メネステウスの返事に、フィクスは頷いた。
少なくとも、これで管理人が王子に代わったからと現場が右往左往することはないだろうとメネステウスは少し安堵する。
「それでは、私から」
「はい」
「傭兵のミュロンを、いったん故郷の村へ帰します。それにはドリュオンとレオンを同行させます」
メネステウスはミュロンがどういう経緯で一行に加わったのか、すでに聞いている。
「村にいる者の中から、傭兵として働ける者を四人連れてきてもらいます」
「四名でございますか」
「ええ。まずはそれだけです。実際に使える者かも見たいから」
人数を増やすのは、その後でも遅くない。
「ドリュオンとレオンには、村までの道と場所も見てもらいます。ミュロンだけを帰して、四人連れて戻ってこいというより確実でしょう」
「では、必要な食料などはこちらで用意いたしましょう」
「お願いします」
そこでフィクスは、昨夜考えていたことへ話を移した。
「もう一つ、紹介してほしい人がいます」
「どのような者でしょう」
「陶工です。できれば、普段の器だけでなく、大きなものや少し変わった形のものも作れる人がいい」
メネステウスが初めて少し不思議そうな顔をした。
「何かお作りになるのでございますか」
「試してみたいものがあります」
それ以上は言わなかった。
便器を作りたい、と今ここで説明する必要はない。そもそも、思い描いている形をこの時代の窯で焼けるのかも確かめていない。
「腕のよい者を探してみます」
「急がなくていい。普段の仕事を止めさせない範囲でお願いします」
メネステウスが頷く。
フィクスは次の話をする前に、少し間を置いた。
「それと……私の居館についてなんだけど」
「何か不都合がございましたか」
「いや。昨日も言ったけれど、十分すぎるほどです」
メネステウスの顔に浮かびかけた緊張が消えた。
「二年後のことです。フィロメラとの婚姻が決まっているでしょう」
メネステウスは思い当たったようで、答える。
「婚姻に合わせまして、新たな居館を整える予定でございます」
「今の居館は、フィクス様がお一人でお住まいになることを前提としております。ご婚姻後は奥方様のお付きの者も増えますし、将来お子がお生まれになれば、なおさら手狭になりましょう」
「建てる場所は決まってる?」
「候補はございます。ただ、まだ二年ございますので、詳しいことはこれからでございます」
「なら、決める前に相談してほしい。少し試してみたい造りがあるんだ」
「承知いたしました」
「費用は?」
「フィクス様のご婚姻に伴う居館でございますので、通常のコトナの運営とは別に王宮から支出されます」
「なるほど」
そして、話題を変える。
「メネステウス。一つ試してみたいことがある」
「何でございましょう」
「農地を少し、私に使わせてもらえないかな」
メネステウスはすぐには答えなかった。
フィクスは続けた。
「広い土地はいらない。普段どおり耕す畑と、やり方を変える畑を並べて、収穫がどれくらい違うのか見たい」
「やり方を変える、と申しますと?」
「王宮で粘土板を読んでいたときに、気になる記録があった」
『王宮の粘土板で読んだ』は、ジェミニの知識で何か新しいことをするためのもっともらしい言い訳だ。
『うまい、言い訳よね。言われた方は真偽を確かめる術がないもの』
左腕にバングルとして嵌められているジェミニがクスリと笑う。
ジェミニの揶揄を無視して続ける。
「実際にやってみないと分からない。だから、まず小さく試したい」
フィクスはメネステウスを見る。
「それと、畑仕事に慣れた者を何人かつけてほしい。私には、この土地の農作業のことはまだ分からないからね」
その言葉に、メネステウスの表情がわずかに変わった。
王子自ら農地を使いたいと言われれば、自分で何かを始めたがっていると警戒したのかもしれない。
「もちろん、農繁期に必要な者を取り上げるつもりはない。どの畑を使うか、何人なら出せるかはあなたに任せる」
フィクスは続けた。
「失敗しても困らない範囲でいい」
「失敗を前提になさるのでございますか」
「成功するか分からないから試すんでしょう」
フィクスが笑顔でそう答えると、メネステウスも小さく笑った。
「ごもっともでございます」
「うまくいけば、少し範囲を広げる。駄目ならやめればいい。そのために、普段どおりの畑も隣に欲しい。同じ年、なるべく似た土地で比べないと、やり方がよかったのか天候がよかったのか分からないから」
メネステウスは先ほどまでとは違う目でフィクスを見ていた。
「承知いたしました。条件に合う畑があるか、耕作を見ている者に確認いたします」
「お願いします」
傭兵を四人雇う。
陶工に試作を頼む。
小さな農地を使い、人にも働いてもらう。
どれも大事業ではない。
だが、コストが掛からないというわけではない。
「今話したことだけど、私に認められている割り当ての範囲で足りる?」
メネステウスは少し考えた。
「農地については、小規模であれば問題ございません。ただし、来年以降も続けられる場合は、その時点で改めて考える必要がございます。それ以外は問題ございません」
「それでいい」
フィクスは頷いた。
最初から大きく動かすつもりはなかった。
まず小さく動かす。
失敗しても誰も困らないところで試し、結果を見る。
「では、そのように手配いたします」
「頼む」
話はそれで終わった。




