028 新しい居館
メネステウスに先導されながら、フィクスは一通り中を見て回った。
自分の寝起きする私室。その外には小さな広間があり、さらに来客を迎えるための部屋がある。アリタをはじめ近侍が使う部屋も近く、厨房と物置は生活する場所から少し離されていた。ドリュオンやレオンたち近しい護衛が詰める場所も用意されている。
王宮の自室とは違う。
あちらでは、自分の部屋を出ればすぐ王宮という巨大な仕組みの中だった。食事を作る者も、衣類を扱う者も、護衛も書記も、それぞれ王宮のどこかにいて、第八王子のためだけに存在しているわけではない。
ここでは、その小さなまとまりが自分のために一つの建物へ収められていた。
「必要なものは、ひとまず揃えております」
メネステウスが言った。
「寝具や食器、灯火に使う油などもございます。足りぬものがございましたら、お申し付けください」
「ありがとうございます。しばらく暮らしてみないと、私にも何が足りないか分からないでしょうから」
「はい。その都度、整えさせていただきます」
フィクスは頷いた。
その言葉を聞きながら、開いた扉の向こうを人が行き来するのを見た。王宮から運んできた荷が入り、もともと用意されていた品と分けられている。厨房でもすでに何人かが働いていた。
まだ自分は一晩もここで眠っていない。
それなのに、この館は一年前から自分が来ることを前提に造られ、今日から何人もの人間がここで働く。
先ほど外で感じたものが、少しずつ形を持ち始めていた。
自分が王子であることは知っている。
十五年間、この身体は王子として育ってきたし、フィクス自身も王宮で暮らすうちに、その立場にはずいぶん慣れた。
だが、自分一人が赴任するというだけで、まだ見たこともない土地で一年前から人が動いていた、という事実は別の重さを持っていた。
夕刻になると、居館の小さな広間にはメネステウスをはじめ、コトナで主だった役目を担う者たちが集まった。
昼間の出迎えほど堅苦しい席ではなかったが、単なる身内の食事でもない。フィクスにとっては、これから日常的に顔を合わせる者たちと同じ卓を囲む最初の機会だった。
メネステウスが話を振り、古くからコトナにいる者がそれに答える。フィクスも尋ねられれば王宮からの旅について話し、こちらからもいくつか尋ねた。
ただ、仕事の話には深く踏み込まなかった。
「詳しいことは、明日の朝にいたしましょう」
途中でメネステウスがそう言った。
「フィクス様も本日はお疲れでございましょう」
「そうしてもらえると助かります。私も、まず何から聞くべきか整理しておきたいので」
それで話は決まった。
食事が終わり、一人、また一人と広間から退出していく。
最後にメネステウスが明朝また伺うと告げて去ると、先ほどまで人の声で満ちていた居館が急に静かになった。
それでも、完全に人がいなくなったわけではない。
護衛はいる。厨房にも人がいる。夜の間も必要な者は館のどこかに残る。
フィクスは私室へ戻った。
アリタが後ろから扉を閉める。
その音を聞いた途端、フィクスは肩から力を抜いた。
「……やっと三人になった」
『長かったねえ』
左手首から声がすると、ジェミニが姿を現した。
フィクスは椅子に腰を下ろした。
王宮を出てから、二人きり、あるいは三人だけになれる時間がほとんどなかった。旅の途中では常に護衛や随員が近くにいたし、領主館ではなおさらだった。ジェミニがこうして姿を現せるのも久しぶりだった。
アリタはもういつものように動いている。水を用意し、フィクスの前へ置く。
「アリタも座れば?」
「私は侍女でございますので」
「今は三人しかいないよ」
「それでも侍女でございます」
『頑固だよね』
「聞こえております」
アリタが平然と答えた。
フィクスは笑い、水を飲んだ。
それだけのやり取りで、ようやく旅が終わった気がした。
『で、マスター』
ジェミニが向かいに座る。
『明日から何するの?』
「明日はまずメネステウスと話す。コトナが今どう動いているのか聞かないと、何をするにしても始まらない」
『兄上にも、最初から変えるなって言われたもんね』
「それもある」
「でも、一つは決めてある」
『何を?』
「トイレ」
ジェミニが黙った。
アリタもフィクスを見る。
『……最初にそれ?』
「最初にそれ」
『領地経営とか農業とか港とかじゃなくて?』
「領地経営とか農業につていも話すさ、でも、こっちは王宮にいた頃から何とかしたかった」
フィクスは真顔だった。
王宮で暮らし始めてから、ずっと不満だったものの一つである。
トイレそのものが存在しないわけではない。問題は、使い勝手と清潔さだった。
「少なくとも、汚れを落としやすい便器が欲しい。陶器で作れれば、今よりずっと手入れしやすくなる」
『焼ける?』
「そこから調べる。小さい器を焼くのと同じにはいかないだろうけど、陶工はいるはずだ」
アリタが少し考える。
「この居館にお造りになるのですか?」
「いや」
フィクスは即座に首を振った。
『あれ?』
「ここは建てもらったばかりだよ」
フィクスは周囲を見た。
「俺が来るために、一年前から造ってくれた。それなのに着いたその日の夜に、トイレが気に入らないから造り直す、なんて言えるか」
『それはまあ……』
「当てつけにしか聞こえないだろ」
ジェミニが笑った。
『王子様の最初の命令が、せっかく造ったトイレの作り直し』
「言えないよ」
フィクスも苦笑した。
そこでアリタが首を傾げた。
「では、どちらへ?」
「近いうちに新しい館が必要になるだろ」
ジェミニはすぐ気づいた。
『ああ。フィロメラちゃん』
「二年後に結婚するなら、このまま一人用の居館というわけにもいかないだろ」
領主館で彼女をコトナへ招いたばかりである。
今度はその先の話をしている。
もっとも、フィクスの頭に浮かんでいるのは新婚生活ではなく、建物の方だった。
「新しく造るなら、そのとき最初から組み込めばいい。トイレだけじゃなく、排水も含めて考えられる」
『新居を建てる話から、こんなに色気のない方向へ行く人いる?』
「必要なものだろ」
『必要だけどさ』
アリタが口元をわずかに緩めた。
「フィロメラ様がお聞きになれば、どのようなお顔をなさるでしょう」
「言わなければいい」
『いつか住むんだから分かるよ』
「完成してからなら、便利だと思ってもらえればそれでいい」
ジェミニが何か言いたそうな顔をしたが、フィクスは相手にしなかった。
まだ陶器の便器が作れるかどうかさえ分からない。
窯も見ていない。陶工にも会っていない。
今夜決められるのは、せいぜい「試してみる」というところまでだった。
フィクスは立ち上がった。
「今日はもう寝よう」
『早くない?』
「明日の午前はメネステウスと話し合いだ。よく寝て、頭をはっきりさせておかないとね」
フィクスは寝室へ向かった。
旅の宿でも領主館の客室でもない。
今夜から、ここが自分の帰る部屋になる。
そのことだけは、寝台へ入ってからもしばらく不思議に感じられた。




