003 初めてのトイレ
拙作「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」 https://ncode.syosetu.com/n1389mm/ の三人がこの物語世界に転生しました。チラッと「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」を読んでいただければ三人のキャラクターが分かるかと思います。
朝食を終えたフィクスは、最後に水を一口飲んで杯を卓へ戻した。
腹は十分に満たされていた。パンにチーズ、オリーブ、干した無花果、それに蜂蜜と薄めた葡萄酒。少なくとも食事に困っている王子ではない。それどころか、自分が望めば水一杯のためにも人が動く。先ほどまでの朝食だけで、第八王子という立場について分かったことは思いのほか多かった。
そして、食べて飲めば、当然その次もある。
フィクスは片づけを始めたアリタへ目を向けた。現地の使用人もまだ室内にいるため、少し声を落として尋ねる。
「アリタ。厠に行きたいんだけど」
「承知しました」
アリタはすぐに答えたものの、歩き出そうとはしなかった。そのわずかな間で事情を察したフィクスが、「場所、分からない?」と尋ねると、アリタは小さく頷いた。
「王宮内の構造について、すべて把握しているわけではありません」
そのとき、左手首のバングルを介して、ジェミニの声がフィクスの頭の中だけに響いた。
『現地生活、二つ目の難関だね』
フィクスは左手首へちらりと視線を落としただけで返事はしなかった。ジェミニの声は周囲には聞こえないが、自分が声に出して応じれば独り言になってしまう。現地人の前では、ジェミニとの会話にも気をつける必要がありそうだった。
幸い、朝食を運んできた年長の男がまだ壁際に控えている。フィクスが「厠へ行きたい」と声をかけると、男は何の疑問も示さず、「かしこまりました。ご案内いたします」と頭を下げた。
場所を知らないとは言わずに済んだことに内心で安堵しながら、フィクスは男のあとについて部屋を出た。
自室から出るのは、転生してからこれが初めてだった。
廊下は思っていたほど広くなく、足元には大きさの揃わない石が敷かれている。壁も下の方は石積みだが、その上には白い漆喰が塗られ、中庭から入る朝の光が赤く塗られた柱を照らしていた。外から眺めただけでは分からなかったが、王宮は一つの巨大な建物というより、部屋や廊下、中庭が複雑につながってできているらしい。
前を年長の男が歩き、アリタが少し後ろからついてくる。その間を進んでいると、向こうから籠を抱えた二人の女がやってきた。
女たちはフィクスに気づくと、すぐに壁際へ寄って足を止めた。
「フィクス殿下」
二人揃って頭を下げ、フィクスが通り過ぎるのを待つ。その先でも、大きな壺を抱えた少年が同じように道を空けた。
朝食を部屋まで運ばせていたときよりも、王子という身分を強く感じた。相手は大人で、自分は十三歳の少年にすぎない。それでも向こうが道を譲り、頭を下げる。フィクス自身が何かを成し遂げたからではなく、第八王子という身分だけでそう扱われている。
ただ、誰も恐れ入って床へ伏したり、仕事を放り出して付き従ったりはしない。礼を尽くして道を譲り、フィクスが通り過ぎればすぐ元の仕事へ戻っていく。
『ちゃんと王子様だね』
左手首からジェミニの声が頭の中へ届いた。
フィクスも同じことを考えていた。
少なくとも使用人から軽んじられているわけではない。けれど、王宮全体が自分の一挙手一投足に注目しているわけでもない。朝食のときに見た第一王子との扱いの差も合わせると、自分の位置が少しずつ見えてくる気がした。
やがて案内役の男が廊下の端にある小さな扉の前で立ち止まり、「こちらでございます」と脇へ退いた。
「ありがとう」
フィクスが何気なく礼を言うと、男がほんの一瞬だけ目を瞬かせた。
朝食のときの少年と同じ反応だった。
どうやら王子が使用人へ礼を言うのは、それほど普通ではないらしい。フィクスはそのことも頭の片隅に置いて扉を開けた。アリタまで当然のようについてこようとしたので、「ここは一人でいい」と止める。
「ですが――」
「大丈夫。厠くらい一人で行ける」
アリタは少し間を置いてから、「承知しました」と引き下がった。
中へ入って扉を閉めると、まず臭いが鼻についた。思わず顔をしかめたものの、想像していたほどひどくはない。狭い石造りの部屋の壁際には腰掛けられる高さの台が造られ、その座面に穴が開いている。
地面に穴を掘っただけのものを覚悟していたフィクスは、少し意外に思いながら近づいた。
「……思ったより、ちゃんとしてるな」
人目がなくなったので、今度は声に出しても構わない。
『マスターが古代を舐めすぎてたんじゃない?』
ジェミニが左手首のバングル越しに答えた。
「それは認める」
穴を覗いてみると、そのまま床下へ続いている。どう処理しているのかまでは分からないが、少なくとも使用するたびに自分で外へ捨てに行くような仕組みではなさそうだった。
そこで、フィクスは別の問題に気づいた。
現代人なら当然そこにあるはずのものがない。
「……ジェミニ」
『なに?』
「紙がない」
『あると思ってたの?』
「思ってはいない。けど、実際にないと困るな」
周囲を探してみると、小さな水の器と、用途を考えればこれだろうと思えるものが置かれている。フィクスはしばらくそれを眺めた。
ボンド・ロックでは、排泄という行為そのものに特別な意識を向ける必要がなかった。設備が洗浄し、排泄物を処理し、汚れた水も回収する。利用する側から見れば、ほとんどすべてが壁の向こうで終わっていた。
ここでは違う。
目の前にある水も、誰かが運んできたはずだ。使ったものは誰かが交換し、穴の下へ落ちた排泄物にも、何らかの処理が必要になる。
「便利っていうのは、処理がなくなることじゃないんだな」
『急にどうしたの?』
「いや。ボンド・ロックだって同じだったんだと思って。見えなかっただけで」
『機械がやってたからね』
「ここじゃ人がやる」
フィクスはそれ以上考えるのをやめて、ひとまず目の前の問題を片づけることにした。
用を済ませて外へ出ると、男とアリタは先ほどとほとんど同じ場所で待っていた。フィクスはそのまま戻ろうとして、手元を見て足を止める。
「手を洗いたいんだけど、水はある?」
男の顔に、ほんのわずかな戸惑いが浮かんだ。それでも理由を尋ねることはなく、「ただいま」と答えると、廊下の先にいた少年を呼び止めて何事か命じた。
ほどなく少年が小さな水差しと鉢を抱えて戻ってきた。アリタがそれを受け取り、鉢をフィクスの手の下へ差し出してから、水差しを傾ける。細い水の流れを両手で受けながら擦り合わせてみるが、水だけではどうにも心許ない。
「何か、汚れを落とすものはない?」
「汚れを、でございますか」
男は少し考え込んだ。質問の意味そのものが伝わっていないわけではなさそうだが、フィクスが何を求めているのかまでは分からないらしい。
「油でしたら、ご用意できますが」
「いや、今はいい」
アリタから渡された布で手を拭きながら、フィクスは水差しを見た。
朝食のときも、水が欲しいと言えば人が運んできた。今も手を洗いたいと言っただけで、一人の少年が水差しを持って走ってきた。
蛇口をひねれば水が出る世界ではない。
それなのに王宮では、必要なところへ水が届いている。
「この水も、朝の水と同じ貯水槽から?」
「はい、殿下」
男は今度は迷わず答えた。
フィクスは廊下の先へ目を向けた。朝食のときには、パン一枚にまで「割り当て」があることを知った。今度は水だ。王族だけでなく、兵士も書記官も職人も使用人も水を飲む。厨房でも使うし、家畜にも必要になる。それを誰かが汲み、必要な場所へ運んでいる。
自分が「欲しい」と言えばすぐ届くのは、自分が王子だからなのか。それとも王宮では誰に対してもこれほど水が潤沢に供給されているのか。今見ただけでは分からない。
「その貯水槽って、見られる?」
男は初めて、はっきりと意外そうな顔をした。
「貯水槽を、でございますか?」
「うん。ちょっと見てみたい」
何をしに、とは聞かなかった。男は一瞬の間を置いただけで、「殿下がお望みでしたら、ご案内いたします」と頭を下げた。
やはり、こういうところでは王子なのだ。
行きたいと言えば行ける。
フィクスはそれを少し不思議に感じながら、手を拭いた布をアリタへ返した。
食べ物には割り当てがあり、水は人の手で運ばれている。厠の穴の先がどうなっているのかも知らない。転生してまだ一度朝食を食べ、厠へ行っただけなのに、分からないことが次々に増えていく。
だが、それでいい。
知らないのなら、見ればいい。
『マスター』
ジェミニの声が左手首から頭の中へ届いた。
『また何か気になってるでしょ』
フィクスは思わず笑った。
「分かる?」
『長い付き合いだからね』
男が怪訝そうにこちらを見たので、フィクスは慌てて口を閉じた。現地人の前でジェミニへ声を出して返してはいけないという教訓を、早くも忘れかけていた。
今度は頭の中だけで、ジェミニに答える。
――まず、水がどこから来ているのか見てみよう。
もちろんジェミニにフィクスの思考そのものが伝わったわけではない。ただ、左手首のバングルへ一度目を落としてから、フィクスは案内役の男へ向き直った。
「貯水槽まで案内してくれる?」
「かしこまりました、フィクス殿下」
男が先に立って歩き始める。その後ろを追いながら、フィクスは先ほどまでとは少し違った目で王宮の廊下を眺めた。
今度は部屋や装飾ではなく、人が何を運び、どこへ向かっているのかが気になっていた。




