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002 初めての食事

拙作「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」 https://ncode.syosetu.com/n1389mm/ の三人がこの物語世界に転生しました。チラッと「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」を読んでいただければ三人のキャラクターが分かるかと思います。

 アリタが壁際に掛けられていた衣服を取った。


 白に近い生成りの布を身体へ巻き、肩で留める。腰には赤褐色の帯。布そのものは柔らかく、織り目も揃っていたが、装飾らしい装飾は縁に入った細い模様くらいだった。


 アリタの手つきに迷いはない。


「腕をお願いいたします」


「こう?」


「はい」


 差し出した腕を通しながら、フィクスは衣服を観察した。


 少なくとも粗末ではない。布地も悪くない。だが、王子と聞いて想像するような金糸や宝石が縫いつけられているわけでもなかった。


『似合ってるよ、マスター』


「比較対象を知らないだろ」


『十三歳の古代王子としてはなかなか』


「その評価基準、信用していいのか?」


 扉の向こうで小さく咳払いが聞こえた。


 フィクスは口を閉じた。


 危ない。


 ジェミニの声は頭の中だけなので外には聞こえないが、こちらの返事は普通に声に出ている。


 アリタが帯の位置を整え、一歩下がった。


「お待たせいたしました」


「入ってもらって」


 アリタが扉を開けた。


 そこに立っていたのは、四十代か五十代ほどに見える男だった。


 日に焼けた顔。顎には短く整えた髭があり、簡素な衣の上から幅の狭い帯を締めている。兵士には見えない。手には何も持たず、腰にも武器はなかった。


 男はフィクスを見ると、胸の前に右手を当て、深く頭を下げた。


「おはようございます、フィクス殿下」


 フィクスは一瞬だけ返事に迷った。


 頭を下げ返すべきなのか。王子なら不要なのか。


 十三歳の身体が覚えている礼儀作法が都合よく湧き出してくるわけではない。


「……おはよう」


 とりあえず、そう答えた。


 男は何も不審に思った様子を見せなかった。


「よくお休みになれましたか」


「ああ。問題ない」


「それは何よりでございます」


 丁寧だ。


 しかも、かなり丁寧だった。


 しかし男は床へ額を擦りつけるようなこともしなければ、怯えて声を震わせてもいない。主人に仕える者として礼儀を尽くしながらも、それが日常の仕事であることが態度から伝わってくる。


 フィクスは少しだけ肩の力を抜いた。


「何か用だった?」


「朝餉のご用意が整いましたので、お伺いに参りました。本日は王よりお召しがございません。こちらへお運びしてよろしいでしょうか」


 王よりお召しがない。


 その一言をフィクスは頭の隅に置いた。


「ここで食べる」


「承知いたしました」


 男は再び一礼すると、扉の外へ顔を向けた。


 待っていたらしい少年が一人、両手で木製の盆を抱えて入ってくる。フィクスより幾つか年上だろうか。盆の上には陶器の皿や杯が載っていた。


 少年はフィクスと目が合った途端、慌てたように視線を下げた。


「殿下」


 短くそう言って頭を下げる。


 それ以上は話しかけてこない。


 最初の男が低い卓を寝台から少し離した位置へ動かし、少年が盆を載せた。アリタは何も言われる前にその横へ回り、皿を受け取って並べ始める。


 現地の侍女として振る舞うつもりらしい。動きは普段より意図的にゆっくりしていた。


 フィクスはその様子を眺めながら腰を下ろした。


 料理は想像していたよりずっと普通だった。


 丸く焼かれた薄いパンが二枚。白っぽい柔らかなチーズ。小さな器に黒いオリーブが数粒。干した無花果。それに蜂蜜らしいものが入った小皿がある。


 肉はない。


 魚もない。


 しかし量が少ないわけでもなかった。


 十三歳の朝食として考えれば、むしろ十分だ。


 少年が最後に陶器の水差しを置いた。


 先ほど部屋にあったものより小さく、表面には赤褐色の線で幾何学模様が描かれている。


「それは?」


 フィクスが聞くと、少年の肩がわずかに強張った。


 代わりに年長の男が答えた。


「薄めた葡萄酒でございます、殿下」


「朝から?」


 一瞬、沈黙が落ちた。


 男の表情には出なかったが、少年の方はわずかに顔を上げた。


 まずかったか。


『マスター、たぶん普通なんじゃない?』


 ジェミニの声が頭の中で笑っている。


 フィクスは何事もなかったように杯を手に取った。


「いや。何でもない」


「水になさいますか」


 男はごく自然に尋ねた。


 フィクスは少し意外に思った。


「できるの?」


「もちろんでございます。お望みでしたら、すぐに」


 なるほど。


 飲み物を変えろと言えば、変えられる。


「じゃあ、水も頼む」


「承知いたしました」


 男が少年へ目配せする。


 少年は一礼して部屋を出ていった。


 命令した。


 そして、人が動いた。


 当たり前のように。


 フィクスは手の中の杯を見た。


 王子なのだ。


 頭では分かっていた事実が、少しずつ実感に変わり始めていた。


 パンを一枚取る。


 表面は少し硬く、まだわずかに温かかった。千切ると中から香ばしい匂いが立つ。


 一口食べてみる。


 素朴だった。


 塩味はほとんどなく、粉そのものの味が強い。少しぼそぼそしているが、噛んでいると甘みが出てくる。


「今朝焼いたもの?」


「はい。王宮の炉より参ったものでございます」


 男は答えた。


 フィクスはチーズを少し載せて、もう一口食べる。


 今度はかなり食べやすい。


 チーズは酸味と塩気が強かった。そこへ蜂蜜をほんの少しつけると、さらに味が変わった。


『どう?』


 ジェミニが尋ねる。


 もちろん声には出さない。


 悪くない。


 フィクスは心の中で答えながら、干し無花果を手に取った。


 保存食として考えれば、これは優秀だ。糖分があり、持ち運びやすい。


 だが、すぐにその思考を打ち切った。


 まだ一食目だ。


 何でも文明改革へ結びつける必要はない。


 アリタがさりげなく水差しへ手を伸ばし、葡萄酒を杯へ注いだ。フィクスは匂いを嗅ぐ。アルコール臭は弱い。葡萄の酸味らしい香りの方が強かった。


 一口だけ飲む。


「……酸っぱいな」


 男がわずかに目を伏せた。


「別の甕のものをお持ちいたしましょうか」


「いや、これでいい」


「かしこまりました」


 嫌だと言えば交換できるらしい。


 パンもある。チーズも果物もある。蜂蜜までつく。


 食器も素焼きの雑器ではなく、簡単とはいえ絵付けされている。


 そして、朝食を運ぶために二人の人間が動いた。


 十分すぎるほど恵まれている。


 それでも何かが引っかかった。


 フィクスは部屋を見回した。


 朝食のために用意されたのは、低い卓が一つ。


 椅子ではなく簡素な腰掛け。


 給仕のために残っているのはアリタだけで、年長の男は壁際に控えているものの、食事そのものには手を出さない。


 王子の食卓。


 確かにそうなのだろう。


 けれど、王の息子の食事という言葉から想像するほど、大仰なものではなかった。


 廊下から足音が聞こえてきた。


 何人もいる。


 開いたままの扉の向こうを、四人の男が通り過ぎる。二人が大きな籠を担ぎ、一人が蓋付きの壺を抱え、最後の一人は細長い包みを両腕で持っていた。


 先ほどの少年とは荷の量が違う。


「今のは?」


 フィクスが尋ねると、年長の男が廊下へ目をやった。


「第一王子殿下のお部屋へ運ぶ品でございます」


「朝食?」


「一部は朝餉でございます。午前の鍛錬後にお使いになるものもございます」


 それだけだった。


 男は余計なことを付け加えない。


 フィクスも聞かなかった。


 だが、今朝ここへ来た盆は一つだった。


 向こうは四人。


『分かりやすいねえ』


 頭の中でジェミニが呟いた。


 フィクスはパンを千切りながら、返事をしなかった。


 露骨に冷遇されているわけではない。


 食事はきちんと届く。衣服も寝具もある。使用人へ命じれば水くらいはすぐ持ってこさせられる。


 誰も十三歳の少年だからと軽く扱わない。


 だが、同じ「王子」の中にも差はあるらしい。


 それもかなりはっきりと。


 やがて少年が水を持って戻ってきた。


 陶器の壺を両手で抱え、卓の横で膝を折る。


「お持ちいたしました、殿下」


「ありがとう」


 少年の動きが止まった。


 ほんの一瞬だけだった。


 すぐに頭を下げる。


「もったいなきお言葉でございます」


 フィクスはその反応を見逃さなかった。


 礼を言うのは、あまり普通ではないらしい。


 アリタが少年から水差しを受け取る。


「こちらは私が」


「はい」


 少年はほっとしたように手を離した。


 フィクスは水を注いでもらい、一口飲んだ。


 冷たくはない。


 もちろん浄水器を通したセーフハウスの水とは比較にならない。わずかに土か石のような匂いも感じる。


 それでも、不快というほどではなかった。


「この水は、どこから?」


 今度は年長の男が少しだけ不思議そうな顔をした。


「王宮内の貯水槽からでございます」


「毎日そこから?」


「はい」


「誰が運んでる?」


 男は今度こそ明らかに戸惑った。


「水運びの者どもが」


「何人くらい?」


「……申し訳ございません。私には」


「ああ、知らないならいい」


 フィクスは水をもう一口飲んだ。


 聞く相手を間違えた。


 しかし、面白い。


 水一つとっても、自分の部屋まで誰かが運んでくる。パンもそうだ。葡萄酒もチーズも蜂蜜も、どこかから集められ、誰かが分け、誰かがここへ届けている。


 十三歳の第八王子にまで。


 その流れの中に、自分はいる。


 フィクスは残ったパンを見ながら、ふと思いついた。


「これ、もう一枚もらうことはできる?」


「もちろんでございます」


 男は即答した。


 だが、その後に、ごく自然な調子で続けた。


「殿下のお部屋へ割り当てられた分でしたら、まだございます」


 フィクスの指が止まった。


「割り当て?」


「はい」


 男はそれ以上説明しなかった。


 説明する必要などないほど当然のことなのだろう。


『マスター』


 ジェミニの声がした。


『そこ、気になったでしょ』


 気になった。


 フィクスはパンの残りを口へ入れた。


 王族の食事さえ、どこかで量を決められている。


 誰が決めているのか。


 何を基準に。


 そして、王や第一王子と自分では、その「割り当て」がどれほど違うのか。


「もう一枚はいいや」


「よろしいのですか」


「ああ。十分食べた」


「かしこまりました」


 男は一礼した。


 フィクスは最後の無花果を食べ、水で口を湿らせた。


 朝食は終わった。


 腹は満たされた。


 そして、転生してから初めて、この世界で調べてみたいものが一つ、具体的な形になった。


 王宮では、物がどうやって人のところまで届くのか。


 まずは、それを見てみよう。


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