001 転生 フィクス13歳
拙作「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」 https://ncode.syosetu.com/n1389mm/ の三人がこの物語世界に転生しました。チラッと「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」を読んでいただければ三人のキャラクターが分かるかと思います。
目を開けた。
最初に見えたのは、石だった。
灰褐色の大きな石を積み上げた壁が、寝台のすぐ脇にある。表面には鑿で削った跡が残り、石と石の隙間には白っぽい漆喰が詰められていた。天井には太い木の梁が渡され、その上を葦と土で固めているらしい。窓から差し込む朝の光の中を、細かな埃がゆっくりと漂っている。
フィクスは寝台に横たわったまま、しばらく動かなかった。
空気の匂いが違う。
乾いた土と石、古い木、それに油を燃やしたような匂いが混じっている。耳を澄ませば、どこか遠くから人の話し声や足音が聞こえてきた。重いものを床の上で引きずる音、陶器か何かが触れ合う硬い音、さらに向こうでは家畜らしい鳴き声まで混じっている。
そして何より――機械の音がしない。
ボンド・ロックのセーフハウスでは、意識することさえなくなっていた空調の送風音も、循環ポンプの低い振動も、壁の向こうで絶えず働いていた機械類の気配もなかった。
「……来たのか」
声に出した途端、フィクスは眉を寄せた。
自分の声なのに、少し違う。
喉へ手を当て、そのまま身体を起こす。背中も腰も何の抵抗もなく曲がり、寝台の縁に腰掛けるまでが妙に軽い。足を下ろすと、素足の裏に床の冷たさが直接伝わってきた。
手を見る。
若い。
皺も染みもない。指は細いが子供のものではなく、手の甲には薄く筋が浮いている。腕にも脚にも最低限の筋肉はある。しかし、鍛え上げられた戦士の身体という感じではなかった。
十三歳。
事前に知らされていた転生先の年齢が、ようやく現実として身体に落ちてきた。
フィクスは両手を何度か開閉してから、左手首へ目を落とした。
そこに、見慣れたバングルがあった。
『おはよう、マスター』
頭の中に、美しく澄んだ声が響く。
その瞬間、フィクスはようやく息を吐いた。
「ジェミニ」
『はいはい。ちゃんといるよ』
「状況は?」
『転生処理は正常終了。マスターの意識、記憶ともに問題なし。バングルも正常。アリタも――』
「マスター」
今度の声は頭の中ではなかった。
振り向くと、寝台から少し離れたところに少女が立っていた。
アリタだった。
ただし、ボンド・ロックで見慣れたメイド姿ではない。足首近くまである簡素な衣をまとい、腰を帯で締め、髪もこの土地の侍女として不自然にならないよう整えられている。表情はいつもと変わらず落ち着いていたが、姿だけを見れば、この王宮に仕える十代の娘にしか見えない。
「身体機能に異常はありませんか?」
「ああ。たぶん」
「『たぶん』では困ります」
いつもの調子だった。
フィクスは思わず笑った。
「転生して一分も経ってないんだ。少し待ってくれ」
「では、三分後に再確認いたします」
『アリタ、そういう意味じゃないと思う』
「承知しております」
こちらも問題ないらしい。
フィクスは立ち上がった。
思ったより目線が低い。身体の重心も違う。それでも二、三歩歩いてみると、足は意外なほど自然に出た。借り物の身体を動かしている感覚はない。むしろ昔からこうだったように馴染んでいる。その自然さがかえって不気味だった。
部屋の中を見回す。
寝台のほかには木製の箱が二つ。低い卓と腰掛け。壁際には水差しと陶器の杯が置かれ、別の壁には何着か衣服が掛けられている。床には織物が敷かれていたが、セーフハウスの柔らかな絨毯に慣れた足には硬い。
粗末というわけではない。
陶器には模様が描かれ、寝台には何枚もの布が重ねられている。壁の一部には赤や青の顔料で装飾まで施されていた。王子の部屋として豪華なのかどうかは、まだ判断できない。それでも、少なくとも庶民の住まいではないことくらいは分かった。
フィクスは卓の上に置かれた小さな金属板に気づいた。
青銅だった。
縁に簡単な装飾があり、磨かれた表面が鈍く光っている。
「鏡か」
手に取る。
現代の鏡のように鮮明ではない。表面はわずかに歪み、細かな傷も走っている。それでも、そこに映っている顔を見るには十分だった。
フィクスは動きを止めた。
知らない少年がいた。
中肉中背。頬は細すぎず太りすぎず、鼻も口も特別目を引くものではない。父や兄たちのような圧迫感のある顔ではなく、街中ですれ違えばそのまま忘れてしまいそうな顔立ちだった。
そして目。
どこか気力の抜けたような、ぼんやりとした目をしている。
フィクスが眉を寄せると、鏡の中の少年も同じように眉を寄せた。
「……これが、フィクスか」
『そう。アカイア王国、第八王子フィクス。十三歳』
知識としては知っていた。
だが、鏡の中で自分と同時に動く幼さの残る少年の顔を見ると、意味がまったく違った。
この顔で生きてきた人間がいた。
この部屋で眠り、ここで食事をし、王や兄弟たちと顔を合わせ、侍女や従者たちから「フィクス殿下」と呼ばれていた。
そして今、その場所に自分がいる。
「元の第八王子の記憶は?」
『人間関係や生活習慣については、必要最低限の補助情報をこちらで整理できる。ただし、本人の人生を丸ごと追体験できるわけじゃないよ』
「なら、下手に知ってるふりをしない方がいいな」
『その方が安全』
フィクスは鏡を卓へ戻した。
そのとき、窓から風が入ってきた。
ガラスはない。
四角く切られた開口部から、外気がそのまま流れ込んでくる。
「当然だけど、窓ガラスはなしか」
『そこから始める?』
「確認しただけだ」
フィクスは窓辺へ向かった。
外を見て、言葉を失う。
石造りの建物が、斜面に沿うように幾重にも連なっていた。
平らな屋根。白く塗られた壁。ところどころに赤く塗られた柱が見える。その間を細い通路が走り、荷を背負った男たちや籠を抱えた女たちが行き交っていた。向こうの建物の前では、大きな甕を数人がかりで運んでいる。
さらにその先。
巨大な石壁が見えた。
一つ一つの石が、人の背丈に迫るほど大きい。遠近感が狂うほどの塊が積み上がり、その上を槍を持った兵士が歩いている。
城壁だった。
映像や復元図で知っていたものとは違う。
ここは遺跡ではない。
人が暮らしている。
まだ滅びていない。
フィクスは窓枠に置いた手へ、知らず力を込めていた。
「ジェミニ」
『うん』
「ここが、アカイア王宮か」
『そう。紀元前1250年のギリシャ、ペロポネソス半島にあるアカイア王宮。マスターがこれから暮らす場所』
眼下では人々が働いている。
荷を運び、声を掛け合い、今日一日の仕事を始めている。
彼らは知らない。
自分たちの文明が、このままなら遠からず大きな破局に向かうことを。
大きな破局、紀元前1200年のカタストロフ(後期青銅器時代の崩壊)。もちろん、紀元前1200年という一年に、すべてが滅びたわけではない。しかし、この時期に、いくつもの災厄が重なる。旱魃。戦争と略奪。難民の移動。武装集団の発生。東地中海交易の崩壊。
アリタが窓から少し離れた位置まで来て、外へ視線を向ける。
「マスター」
「うん?」
「私の立場について確認しておく必要があります」
フィクスは振り返った。
「侍女として?」
「はい。現在の服装そのものに問題はありません。しかし、この王宮における私の経歴、他の使用人との関係、どの範囲までマスターに随行できるのかについては把握が必要です」
『そのへんは転生処理に入ってるよ。少なくとも、いきなり衛兵が飛び込んできて「お前は誰だ」ってなる状態じゃない』
「なら安心していいのか?」
『最低限はね。細かい人間関係までは、実際に確認した方がいい』
「了解」
フィクスはそう答えたものの、すぐに視線を水差しへ向けた。
「ところで、この水は飲める?」
アリタが先に動いた。
水差しを手に取り、匂いを確かめ、少量を杯へ注ぐ。
「目視上、大きな異常はありません。詳細な成分については確認可能です」
『マスター、文明を救う前に腹壊したら格好つかないよ』
「分かってる」
思わず苦笑した。
やるべきことはいくらでもある。
だが、まずは水だ。
次は食事。衣服。排泄。風呂。部屋の出入りをする人間。第八王子として、どこまで自由に歩けるのか。
考えれば考えるほど、知らないことばかりだった。
だからこそ、一つずつ確かめるしかない。
フィクスが水差しへ手を伸ばしかけた、そのときだった。
扉が叩かれた。
三人の動きが止まる。
「フィクス殿下」
扉の向こうから、男の声がした。
「お目覚めでしょうか」
フィクスは反射的にジェミニを見るように左手首へ視線を落とした。
『マスター』
「何だ」
『現地人第一号』
フィクスは無言で自分の格好を見下ろした。
薄い布を身体に巻いただけに近い。
アリタはすでに壁際へ向かっていた。
「マスター。まず、お着替えを」
『文明を救う前に着替えだね』
「……分かったよ」
扉の向こうでは、人が待っている。
もう窓から眺めているだけでは済まない。
ここから先、自分はこの世界の人間――アカイア王国第八王子フィクスとして振る舞わなければならない。
十三歳の身体で迎える、アカイア王宮での最初の朝が始まった。




