026 辞去
大宴が終わり、フィクスが客室へ戻った頃には、館の中もようやく静かになり始めていた。
広間ではまだ片付けが続いているらしく、遠くから人の行き来する気配が聞こえてくる。扉を閉めると、それもずいぶん遠くなった。
フィクスは肩から留め具を外し、ようやく息をついた。
『お疲れさま、王子様』
「疲れたよ」
左手首から聞こえたジェミニの声に、フィクスは苦笑した。
アリタは部屋にいない。ここはアルケシラオスの館であり、王宮にいたときのように侍女が主人の私室へ夜まで居続けるわけにはいかなかった。ジェミニも姿を現さず、今は声だけで話している。
『でも、昨日よりずっと豪華だったね』
「あれが本来の歓迎なんだろう」
昨夜の食事は、山越えの一行を休ませるためのものだった。
今夜は違った。
広間には領主家の者だけでなく、エリミオンの主要な家臣や有力者も集まっていた。大きな炉では肉が焼かれ、パン、魚、チーズ、オリーブなどが次々と運ばれた。葡萄酒は水で割られて大きな器から注がれ、杯が空く暇もない。
とはいえ、ただ騒がしい宴ではなかった。
上座ではエウリュメドンとアルケシラオスが話し、その周囲には身分に応じて席が設けられている。竪琴に合わせた歌もあり、酒が回るにつれて笑い声も増えたが、誰も国王の名代がいることを忘れてはいなかった。
「兄上はさすがだったな」
『ああいう席、本当に強いね。名前も顔もよく覚えてるし』
「俺より経験があるからね」
エウリュメドンは初めて会う者とも自然に言葉を交わしていた。
領主の親族には王宮の近況を話し、武人とは馬や戦の話をし、年長者には父王から聞いた昔の話まで持ち出す。相手によって話題を変えながら、それでも国王の名代としての立場は崩さない。
自分にはまだできない芸当だと、フィクスは素直に思った。
『マスターも悪くなかったよ』
「何が?」
『ちゃんと王子してた』
「それはどうも」
『特にフィロメラちゃんと話してたとき』
フィクスは留め具を置く手を止めた。
「……そこ?」
『そこ』
「少し話しただけだろ」
宴の途中、フィロメラとは確かに言葉を交わした。
昼間に案内してもらった倉の話になり、フィクスが油や葡萄酒についてもう少し聞きたいと言うと、フィロメラは近隣の村によって持ち込まれるものが違うと教えてくれた。そのうち母親から何か言われ、二人とも話を切り上げた。それだけである。
『婚約者と宴の席で仲よくお話。周りの人、けっこう見てたよ』
「見ていたのは気づいてる」
『へえ』
「だから何だ」
『いやあ。昨日会ったばかりなのに、もう自然に話せるんだなあと思って』
「領主館のことを聞いただけだ」
『昼間も二人でずいぶん話したもんね』
「ジェミニ」
『はいはい』
声が笑っている。
フィクスは水を一口飲んだ。
「フィロメラは話しやすい。それだけだよ」
『どういう意味で?』
「エリミオンのことを知っているから」
『そういう答えになると思った』
フィクスは眉を寄せた。
だが、実際そうだった。
フィロメラは領主の娘として知識を詰め込まれているのではなく、母親について館や作業所を歩き、人の働くところを見て覚えている。だからフィクスが一つ尋ねれば、そこから粘土板には出てこない話が返ってくる。
婚約者であることを別にしても、これから話す機会は多い方がよい。
『まあ、マスターがそれでいいならいいけど』
「何が言いたい」
『別にー』
そこでジェミニは笑うだけになった。
フィクスは追及しなかった。
明日は領主館を辞し、いよいよ王家のコトナへ入る。
そのことを考えると、宴の余韻より、これから自分が預かる場所への興味の方が強かった。
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翌朝、領主館の中庭にはすでにフィクスの一行が整えられていた。
もっとも、来たときよりずっと小さい。
エウリュメドンはまだエリミオンに滞在するため、王宮から同行してきた者の一部も領主館に残る。フィクスとともに移るのは、コトナで暮らす者と護衛、それに必要な荷駄だった。
アリタも何事もなかったようにフィクスの近くへ戻っている。
アルケシラオス夫妻と家族が見送りに出ていた。
「短い間ではございましたが、何かご不自由はございませんでしたか」
領主夫人に尋ねられ、フィクスは頭を下げた。
「何一つ。たいへんよくしていただきました。ありがとうございます」
「コトナは遠くありません。必要なものがございましたら、遠慮なくお知らせください」
「そうさせていただきます」
アルケシラオスとも言葉を交わす。
「これからが殿下のお役目の始まりでございますな」
「はい。まずは人と土地を見ようと思っています」
「分からぬことがあれば、いつでもお越しください」
「ありがとうございます。こちらからお尋ねすることも多いと思います」
フィクスはそこで少し笑った。
「そのときは、面倒がらずに教えていただけると助かります」
「もちろんでございます」
アルケシラオスも笑った。
形式だけではない、昨日までより少し柔らかな挨拶になっていた。
エウリュメドンとは最後に言葉を交わした。
「何かあればこちらへ来い。私がいる間なら話も聞ける」
「分かりました」
「最初から変えようとするなよ」
兄の声が少し低くなる。
「まず見ろ」
「そのつもりです」
エウリュメドンはフィクスの顔を見て、頷いた。
「ならいい」
一通り挨拶を終え、フィクスは馬の方へ向かおうとした。
そのとき、母親のそばに立っているフィロメラが目に入った。
昨日、館の中を案内してもらった。
そういえば、その礼をきちんと言っていなかった。
「フィロメラ」
呼ばれた彼女が顔を上げる。
「はい」
「昨日はありがとうございました。おかげで、ずいぶん館のことが分かりました」
「いえ。私も、殿下とお話しできて楽しかったです」
「それなら――」
フィクスは少し考えた。
領主館を見せてもらった。
なら、今度はこちらを見てもらえばいい。
「よかったら、コトナにも来てください」
フィロメラが瞬きをした。
「よろしいのですか?」
「もちろん。今度は私が案内する番です」
言ってから、なぜか周囲が一瞬だけ静かになった気がした。
フィクスはアルケシラオス夫妻を見る。
夫人の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
アルケシラオスも何も言わない。
エウリュメドンに至っては、こちらを見ながら明らかに何かを面白がっている。
――何だ?
考えて、ようやく気づいた。
自分としては、案内されたから今度はこちらが案内する、というだけの話だった。
だが二年後に婚姻を予定している娘を、これから自分が暮らす館へ招いたとなれば、聞く側には少し違った意味にもなる。
今さら取り消すようなことでもない。
フィクスは何も言わず、フィロメラへ視線を戻した。
彼女も同じことに気づいたらしい。
ほんの少しだけ頬を赤らめていた。
「では……母上にお許しをいただいて、伺わせていただきます」
「ええ。お待ちしています」
それ以上は言わなかった。
フィクスはアルケシラオス夫妻にもう一度礼をして、馬へ向かった。
後ろからアリタがついてくる。
馬に乗る前、左手首から小さな声がした。
『マスター』
「何だ」
『今の、よかったよ』
フィクスは聞こえなかったことにした。




