025 領主館の案内
翌朝、フィクスはエウリュメドンとともに、館の広間へ招かれた。
昨日の出迎えとは違い、同席している者は少なかった。アルケシラオス夫妻と領主家の主要な者が控え、正面には国王の名代としてエウリュメドンが座っている。フィクスはその隣に席を与えられていたが、今日の話の中心が自分ではないことは分かっていた。
エウリュメドンは父王から預かった言葉を伝えた。アルケシラオスが長くエリミオンを治めてきたことへの信頼と、今後も王家に仕えることへの期待。そしてフィクスを王家のコトナの管理人として置くことについても、領主の権限を奪うためではなく、王家の土地を任せ、更には王家とエリミオン領との関係を一層緊密にするためだと改めて告げた。
アルケシラオスは黙って聞き終えると、深く頭を下げた。
「陛下のお言葉、ありがたく承りました。フィクス殿下がこの地での目的を果たされるよう、当家も協力いたします」
「父上にもそう伝えよう」
そこでエウリュメドンは一度フィクスを見た。
「もう一つ、両家の婚姻についてだ」
フィクスは表情を変えなかった。
隣ではアルケシラオスの妻も静かに夫を見ている。
「父上は急がせるつもりはない。フィクスもまずこの地で自分の役目を覚えねばならん。婚姻は二年後としたい」
「私どもに異存はございません」
アルケシラオスは妻と目を合わせてから答えた。
「フィロメラにも、そのように伝えます」
「フィクスもよいな」
「はい」
二年。
十五の自分は十七になり、フィロメラも今より二つ年を重ねる。その頃には、自分がコトナで何をしているのかも少しは見えているだろう。
フィクスには、そのくらいの時間がある方がありがたかった。
妻になるからというだけで、昨日初めて会った少女をすぐ身近に置くよりも、まず互いを知る時間があった方がいい。
それ以上のことを、この席で言う必要はなかった。
昼を過ぎた頃、フィクスは領主夫人から館を案内すると声を掛けられた。
夫人の傍らにはフィロメラがいた。
「殿下もしばらくはこちらでお過ごしになりますし、コトナへ移られたあとも我が家とは行き来することになりましょう。館の中を少しご覧になりますか」
「ぜひお願いします」
答えた途端、フィロメラがわずかにこちらを見た。
その反応が何を意味したのかは分からなかった。
アリタを伴って二人についていくと、まず連れて行かれたのは館の倉だった。
扉の内側には穀物を収める大きな容器が並び、出入りする者たちが荷を運んでいる。昨日は客として通り過ぎただけだった場所に足を踏み入れると、フィクスは自然と歩みを緩めた。
「こちらには、各地から届けられた穀物を収めています」
夫人の説明を聞きながら、フィクスは容器だけでなく、入口近くで受け取りを確かめている男を見た。
「届いたものは、ここで量を確かめるのですか」
「ええ。あちらの者が見ています」
「村ごとに?」
今度はフィロメラが答えた。
「はい。どこから何が届いたのか分からなくなっては困りますから」
「全部、領主家で使うものになるのですか」
「いいえ」
返事が早かったので、フィクスは彼女を見る。
フィロメラは少し考えてから続けた。
「館で食べるものもありますし、働く者たちへ渡すものもあります。祭礼のために分けておくものもあります。すべてを同じようには扱いません」
「なるほど」
フィクスはもう一度、倉の中を見た。
王宮でも似たものを見ている。
だが規模が違うだけで同じ、と考えるのは早そうだった。
「毎年、村から同じだけ届くのですか」
今度はフィロメラの返事に少し間があった。
「いいえ。今年と去年でも違います」
「収穫量が違うから?」
「それもあります。雨が少なかった村もありますし、家畜を多く飼っている村なら、穀物だけを見るわけにもいきません」
フィクスは彼女の顔を見た。
「不作でも、決められた量を集めるのかと思っていました」
「そのような年には、父が村の者と話すことがあります。いつも同じだけ取れば、翌年の種までなくなることがありますから」
そこでフィクスの足が止まった。
「それは、誰が判断するんです?」
フィロメラが少し驚いたようにこちらを見る。
「父です。ただ、その村のことをよく知る者にも尋ねます」
「収穫量だけで決めない?」
「はい」
「では、その判断は粘土板には――」
言いかけて、フィクスはやめた。
王宮で見た地方からの記録を思い出していた。
数字が減った年がある。
ただの不作だと思っていたものの中に、意図的に取り立てを減らした年も混じっていたのかもしれない。
数字だけでは区別できない。
「殿下?」
「すみません。少し考えていました」
「倉がお好きなのですね」
フィロメラが言った。
フィクスは思わず笑った。
「そう見えますか」
「昨日、館へ入られたときも、あちこちご覧になっていましたから」
見られていたらしい。
「物を見るのが好きなんです。ただ、王宮では粘土板に書かれたものばかり見ていたので、こちらへ来たら実際にどうなっているのか確かめたいと思っていました」
フィロメラは何も言わなかったが、フィクスを見る目が少し変わったように思えた。
倉を出ると、今度は衣類や布を扱う区画へ向かった。
「こちらでは館で使う布を管理しております」
夫人が説明する傍らで、女たちが折り畳んだ布を運んでいる。
フィクスが布そのものを眺めていると、フィロメラが言った。
「普段使うものだけではありません。宴や祭礼で使うものもこちらで分けています」
「祭礼だと、一度にかなり必要になるでしょう」
「はい。ですから足りなくなってから織らせるのでは間に合いません」
答え方に妙な具体性があった。
「貴女も関わっているのですか」
「母について作業所へ参ります。先日も祭礼で使う布をまとめて頼んでおりましたので、出来上がったものを見に行きました」
「出来上がりを見るだけ?」
フィロメラが首を振る。
「まだ織っているものも見ます。遅れているところがあれば、いつ頃できるのかも聞きます」
「なぜ遅れたのかも?」
「それは聞かないと分かりませんから」
フィクスは少し黙った。
単に領主の娘が母について家事を習っているのだと思っていた。
だが、どうも違う。
「織り手の人数まで知っているんですか」
「全部ではありません」
フィロメラは少し困ったように答えた。
「ただ、いつも頼んでいるところなら、誰が上手なのか、誰の家が今忙しいのかくらいは母から聞いています」
フィクスは思わず笑みを浮かべた。
「それは、私よりずっと詳しい」
「殿下より?」
「私は粘土板に残っている数なら多少分かります。でも、その布を誰が織ったかまでは分からない」
フィロメラは意外そうに瞬きをした。
そのとき、少し先を歩いていた夫人が立ち止まった。
「そうでした」
二人が顔を向ける。
「私は少し用がございますので、フィロメラ、続きをご案内しなさい」
「はい、母上」
あまりに唐突な申し出だった。
夫人はフィクスへ一礼すると、近くにいた使用人を伴って別の通路へ消えていく。
残ったのはフィクスとフィロメラ、それに少し後ろを歩くアリタとフィロメラ付きの侍女だった。
フィクスは母親が何をしたのか理解した。
おそらくフィロメラも理解している。
だからといって、それを口に出すほど野暮でもなかった。
「では、お願いします」
「はい」
フィロメラは少しだけ緊張した顔で歩き始めた。
「次は油と葡萄酒を置いているところが近いです」
「それも村ごとに入ってくるものが違いますか」
「違います。オリーブの多い村もあれば、葡萄の方が多いところもあります」
「土地の違い?」
「それもあります。でも、昔から作っているものが違うところもあります」
フィクスは歩きながら彼女を見る。
返ってくるのは制度の説明ではなかった。
どの村が何を作る。
どの道は荷を運びやすい。
誰に聞けば分かる。
そういう答えだった。
王宮で一年かけて集めた知識とは、向きが逆だった。
自分は数字からこの土地へ来た。
彼女は、この土地で見聞きしたものから覚えている。
「フィロメラ」
「はい」
「エリミオンについて分からないことがあったら、あなたに聞いてもいいですか」
彼女は少し驚いた。
「私で分かることであれば」
「たぶん、私が知らないことをたくさん知っている」
「でも私は、粘土板のことなどほとんど……」
「それは私が見ればいい」
フィクスは前方の倉へ目を向けた。
「私が知りたいのは、粘土板に書いていないことだから」
フィロメラはすぐには答えなかった。
やがて、ほんの少し表情を緩める。
「でしたら、私に分かることはお話しします」
「助かります」
それだけ言って、二人は再び歩き出した。
フィクスにとって、それは婚約者との最初のまともな会話だった。
けれど、そのとき彼の頭にあったのは婚姻のことではない。
エリミオンについて尋ねられる相手を、一人見つけた。
まずは、そういう認識だった。
そしてフィロメラの方でも、昨日門前で見た「第二王子の隣にいた目立たない王子」と、今隣を歩いているフィクスは、少しずつ同じ人物ではなくなり始めていた。




