023 領主の館
領主館の門前へ近づくにつれ、出迎えの形がはっきり見えてきた。
道を塞ぐほど人を集めているわけではない。門の正面を空け、その両側に館の者たちが整然と並んでいる。前列には領主家の者と主要な家臣、その後ろに従者や使用人が控え、門の左右には槍を持った男たちが立っていた。
その中央で一行を待っていた男が、アルケシラオスなのだろう。
年齢は父王よりいくらか若く見える。華美な装いではなかったが、周囲の者が自然と一歩退いて立っているため、誰がこの土地の主人なのかは聞くまでもなかった。
その隣には妻らしい女性がいる。さらに三人の若い男と、一人の少女。
フィクスの視線はそこで一度止まった。
『たぶん、あの子だね』
ジェミニの声が左手首から聞こえる。
返事はしなかった。
今はフィロメラを見に来たのではない。
先頭を進んでいたエウリュメドンが馬を降りた。
フィクスもそれに続く。
アルケシラオスが前へ出た。
「エウリュメドン殿下。遠路、よくお越しくださいました」
「アルケシラオス。出迎え、感謝する」
兄の声はよく通った。
王宮を出てから何度も見てきたが、こういう場ではやはり自分よりはるかに慣れている。
「陛下の名代として参った。しばらく世話になる」
「光栄にございます。皆、殿下方のお越しをお待ちしておりました」
アルケシラオスはそこでフィクスにも顔を向けた。
「フィクス殿下。エリミオンへようこそお越しくださいました」
「ありがとうございます。これから長くお世話になります」
「こちらこそ。殿下をお迎えできましたこと、嬉しく存じます」
それだけだった。
エウリュメドンが王の名代として来ている以上、門前でフィクスが前へ出る必要はない。
アルケシラオスも心得ているらしく、長々とした挨拶を始めなかった。
「山越えでお疲れでございましょう。お話は中で。まずはどうぞ、お入りください」
「そうしてもらえると助かる」
エウリュメドンも笑った。
馬や荷駄は館の者たちに任され、一行は門をくぐった。
フィクスは歩きながら、さりげなく周囲を見る。
外から眺めたときにも分かっていたが、中へ入ると、ここが一棟の大きな屋敷ではないことがよく分かった。中庭を囲んでいくつもの建物があり、その向こうにも別の区画が続いている。人が行き交い、荷を運ぶ者もいる。どこかから穀物を移す音が聞こえ、別の方向からは家畜の声までした。
王宮より小さい。
だが、単なる地方領主の住居とも違う。
この丘そのものが一つの大きな家であり、倉であり、仕事場でもあるようだった。
『見たいところだらけって顔してる』
「……後にする」
『成長したねえ』
フィクスは答えなかった。
前を歩くアルケシラオスの妻の傍らには、先ほどの少女がいる。
フィロメラ。
婚姻の相手として、一年前に名前を聞いた。
調べようと思えば、もっと詳しく調べることもできただろう。しかし、人柄まで王宮から探らせるのはやめた。どうせ同じ土地で暮らすことになる。ならば自分で会って見た方がよい。
そう考えていた相手が、今は数歩先を歩いている。
不思議ではあったが、緊張はしなかった。
少なくとも今は、婚姻について話す場ではない。
館の広間へ通されると、門前より改まった形で双方が向き合った。
正面にはアルケシラオスと妻、その近くに三人の息子とフィロメラが並ぶ。領主家の主要な男性親族や家臣も控えていた。
先ほどまでとは違い、エウリュメドンも表情を引き締めた。
「アカイア王アガメムノン三世の名代として参った、第二王子エウリュメドンである」
アルケシラオスが深く頭を下げた。
「エリミオンを預かるアルケシラオスにございます。陛下の御名代を我が館へお迎えできますこと、光栄に存じます」
「父王より、そなたへ言葉を預かっている。それについては、明日あらためて話したい」
「承知いたしました」
エウリュメドンは頷き、そこでフィクスへ目を向けた。
「弟のフィクスだ。すでに伝えてあるとおり、王家のコトナを預かるため、この地へ参った」
フィクスは一歩前へ出た。
「フィクスです。まだ土地のことを知らぬ身です。王家の土地を預かる以上、アルケシラオス殿にはお教えいただくことも多いと思います。よろしくお願いいたします」
アルケシラオスがフィクスを見た。
ほんのわずかに、その目が和らいだように思えた。
「こちらこそ、できる限りお力添えいたします」
それから領主家の者たちが順に紹介された。
三人の息子。
主要な親族。
館を支える家臣たち。
そして――。
「三女のフィロメラにございます」
アルケシラオスに促され、少女が一歩前へ出た。
「フィロメラと申します。フィクス殿下のお越しをお待ちしておりました」
フィクスも彼女を見る。
初めて真正面から目が合った。
フィロメラは目を伏せすぎることも、こちらを見つめすぎることもなかった。緊張はしているのだろうが、それを表へ出すまいとしているのが分かる。
「フィクスです。お会いできて嬉しく思います」
それ以上は言わなかった。
フィロメラも静かに頭を下げた。
婚姻の話を知らない者はいないだろう。
それでも今ここで二人を見世物のように扱う者はいなかった。
フィクスには、そのことの方がありがたかった。
正式な挨拶が終わると、アルケシラオスの妻が口を開いた。
「本日は長旅の後でございます。ささやかではございますが、お食事をご用意しております。まずはお身体をお休めくださいませ」
「ありがたい」
エウリュメドンが応じる。
「本格的な宴は明日の夜に、と主人とも話しております」
「それでよい。今夜から大宴では、こちらも少々つらい」
兄が笑うと、広間の空気が少し緩んだ。
フィクスも内心では同意した。
山を越え、その途中では襲撃まで受けた。怪我こそしていないが、身体には確実に疲労が残っている。
「それから、フィクス殿下」
アルケシラオスが言った。
「王家のコトナへお移りになるまでの間は、どうぞ我が館にお泊まりください。お部屋を用意しております」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
「エウリュメドン殿下にも、エリミオンにおられる間はこちらへお泊まりいただければと」
兄は一瞬だけアルケシラオスを見た。
その意味は、フィクスにも分かった。
国王の名代である第二王子を自分の館に泊める。
そして第二王子がそれを受ける。
ただ寝床を借りるという話ではない。
「そうさせてもらおう」
エウリュメドンはためらわなかった。
「滞在中、世話になる」
アルケシラオスが深く頭を下げた。
言葉以上のものが、そこで交わされた。
少なくとも王家は、この領主の館で第二王子が夜を過ごせないほど彼を疑ってはいない。
フィクスは何も言わず、そのやり取りを見ていた。
こういうものは粘土板には残りにくい。
どこへ泊まるか。
誰の食卓で食べるか。
誰の屋根の下で眠るか。
それだけで伝わることがある。
やがて広間を出るよう促され、フィクスも皆に続いた。
今夜は食事をして休む。
明日は父王の言葉が正式に伝えられ、その翌日以降には王家のコトナを見ることになるだろう。
その合間には、アルケシラオスとも話す。
フィロメラとも、いずれ話すことになる。
フィクスは歩きながら中庭へ目をやった。
人が行き交い、荷が運ばれ、その向こうにはまだ見ていない建物が続いている。
一年前まで粘土板の地名にすぎなかったエリミオンでの最初の夜が、ようやく始まろうとしていた。




