021 エリミオン領
エルド山地を抜けたことは、誰かに教えられるまでもなく分かった。
昨日まで道の両側へ迫っていた岩肌が少しずつ遠ざかり、空が広くなった。山そのものがなくなったわけではない。振り返れば、越えてきた峰々が幾重にも重なっている。ただ、前方には斜面の緩やかな丘が続き、その間に畑らしい区画が見え始めていた。
フィクスは何度目か分からないほど後ろを振り返った。
「抜けたんだな」
『やっとね』
ジェミニの声にも、どこか解放されたような響きがあった。
「もう上から石は飛んでこない?」
『それは保証しない』
「言わなきゃよかった」
アリタが小さく笑った。
三人の少し後ろには護衛が続き、そのさらに向こうにミュロンがいる。縄を掛けられているわけではない。武器だけは取り上げられ、護衛の間を歩かされていた。
逃げようと思えば、機会はあるのかもしれない。
だが逃げれば、アグリオン村へ戻ったテオンまで困ることになる。本人にもそれは分かっているのだろう。今のところ妙な動きはなかった。
「ミュロン、ずっと後ろ見てるな」
フィクスが呟いた。
エルドの山々がまだ見えている。
「故郷でございますから」
アリタが答えた。
「分かってる」
昨日まで敵だった。
今は人質であり、うまくいけば自分が雇う傭兵になる。
フィクスはその奇妙な関係を考えながら前へ向き直った。
道は緩やかに下っていた。
山中では谷底のわずかな土地へ張り付くように畑があったが、こちらでは違う。丘と丘の間にまとまった耕地があり、その向こうにもまた畑が見える。穀物ばかりではなく、斜面には木が一定の間隔で並んでいるところもあった。
「オリーブ?」
『そうだね』
ジェミニが答えた。
フィクスは目を凝らした。
王宮周辺でも珍しいものではない。だが山を越えた直後だからか、ひどく豊かな景色に見えた。
「エルドとは全然違うな」
『隣り合ってるからって、同じ土地じゃないよ。山を一つ越えれば水の流れ方も、土も、風も変わる』
「未来の地図で見ると、すぐ近くなのにな」
『地図の上ならね』
フィクスは笑った。
それは、この旅に出てから何度も感じたことだった。
王宮で地名を見る。
粘土板で産物を見る。
未来の地図で距離を測る。
それで知ったつもりになっていた。
だがエルド山地を越えるだけで何日もかかった。道が崩れれば進めず、狭くなれば隊列が伸び、ほんの短い距離の向こうにいる兄のところへさえ護衛をすぐには送れなかった。
地図の線には、その時間がなかった。
「エリミオンの記録で、穀物のほかに何が多かったっけ」
『油、葡萄酒、羊毛。家畜も無視できない。もちろん王宮に残ってる記録だけで、この地方の生産全部が分かるわけじゃないけど』
「港もある」
『ある』
フィクスは前方を見た。
「まだ海は見えないな」
「もう少し先でございます」
アリタが言った。
「現在の位置と地形から考えますと、ここからでは間の丘陵に遮られています」
「海の近くまで来た感じもしない」
『それも面白いところだよね』
「何が?」
『マスター、エリミオンって聞くと港を最初に思い浮かべるようになってたでしょ』
言われてみればそうだった。
一年間調べるうちに、エリミオンと港がフィクスの中で結びついていた。
『でも、港があるからって、地方全体が海辺なわけじゃない』
「当たり前なんだけどな」
『現地を見るまで実感しにくいんだよ』
フィクスは道の先へ目を向けた。
畑で数人が働いている。
その向こうには低い石垣があり、羊らしい群れが動いている。さらに遠くには家々が小さく集まり、そこから細い道が今歩いている道へつながっていた。
海は見えない。
船もない。
今、目の前にあるのは農村だった。
「じゃあ、ここで作ったものが港へ行くこともあるのか」
『ものによるだろうけどね』
「王宮へ行くものもある」
『うん』
「領主のところへ集まるものもある。王家のコトナに入るものもある」
フィクスはそこで口を閉じた。
王宮では、それぞれ別の粘土板で見ていた。
穀物。
油。
羊毛。
人。
家畜。
船。
けれど今は、それらが同じ土地の中にある。
「マスター?」
「いや……」
道端を荷を背負った男が歩いている。
向こうから来た農夫らしい男は、一行を見るなり道を外れた。護衛の数に驚いたのか、頭を下げたまま通り過ぎる。
その男が誰に何を納め、どこの畑を耕し、余ったものをどこへ持っていくのか。
粘土板を見ても、おそらく全部は分からない。
「俺が管理するコトナって、この中の一つなんだよな」
『そう考えた方がいい』
「エリミオンを管理するわけじゃない」
『もちろん。領主はアルケシラオス。マスターが預かるのは王家のコトナ』
「分かってたつもりなんだけど」
フィクスは丘の向こうまで続く土地を眺めた。
一年間、エリミオンについて調べてきた。
そのせいで、いつの間にか頭の中には一つの「エリミオン」ができていた。
実際には領主の屋形があり、王家の土地があり、村があり、村ごとに畑がある。港には港の人間がいるだろう。さらに王宮の記録へほとんど現れない暮らしもある。
「まず、自分のものと他人のものを間違えないようにしないとな」
『それ、かなり大事』
「勝手に領主の土地まで管理し始めたら大問題だし」
「フィクス様なら、気づいた問題へ口を出されそうでございます」
アリタが穏やかに言った。
「俺、そんなに信用ない?」
『そういう意味では信用されてるんだよ』
「もっと悪いじゃん」
アリタがまた笑った。
フィクスも笑いながら、もう一度周囲を見渡した。
山を越える前とは、空気まで違って感じられる。
けれど、まだ海は見えない。
領主アルケシラオスにも会っていない。
王家のコトナも、港も、そしてフィロメラも見ていない。
一年間調べてきた土地へ、ようやく足を踏み入れただけだった。
それでもフィクスには、粘土板の上に並んでいた文字が、少しずつ地面へ降りてきたように思えた。




