018 エルド山地
エルド山地へ入ってから、道は目に見えて悪くなった。
王宮を出たばかりの頃には、荷を載せた獣と並んで歩いてもさほど苦にならなかったが、昼を過ぎた頃には道幅そのものが狭くなり、片側には岩肌、もう片側には谷が迫るようになった。遠くから眺めていた山は一つの大きな塊に見えたのに、中へ入ってしまえば尾根の向こうにまた尾根があり、その合間に小さな谷や平地が隠れている。
フィクスはロバの背で揺られながら、斜面に散らばる羊の群れを眺めた。
畑がないわけではない。谷底の少し平らになったところには麦らしいものも見える。しかし王宮周辺のように、見渡す限り畑という景色にはならなかった。
「今夜は、あそこに泊まります」
随員の一人が指した先に、石造りの屋形が見えた。
大きな城塞ではない。だが周囲の家々より一段高い場所にあり、外壁もしっかりしている。その下には家がまとまり、さらに斜面へ羊や山羊の姿が散っていた。
「この辺りの領主?」
「領主というほどの各は持ちません。しかし、この谷ではあの家の言うことが一番通ります」
なるほど、とフィクスは思った。
王宮では地方を一つの名前で呼ぶ。
エルド山地。
けれど実際に来てみれば、一つの山地の中にいくつもの谷があり、それぞれに村がある。この谷から隣の谷へ行くだけでも、平地の村同士を訪ねるようにはいかない。
王宮から見れば一つでも、ここで暮らす者にとっては違うのかもしれなかった。
その夜、フィクスたちは屋形の広間でもてなしを受けた。
火の上では羊肉が焼かれ、皿には粗く割ったパンと山羊の乳から作ったものが並んでいる。エウリュメドンの正面にはこの家の主人が座り、その左右には息子や親族らしい男たちが控えていた。フィクスも兄の隣に席を与えられたが、話をしているのはほとんどエウリュメドンだった。
「道は以前より良くなったと聞いていたが」
エウリュメドンが杯を置いた。
「王子殿下には申し訳ございません」
主人が苦笑する。
「春の雨で二か所崩れました。人は通れますが、車輪を通すにはまだ危のうございます」
「直せぬか」
「直せます。ですが石を退けても、次の雨でまた落ちる場所でございます」
エウリュメドンは責めなかった。
「だから荷はロバか」
「はい。山を越えるなら、それが一番確かでございます」
フィクスは黙って聞いていた。
王宮の記録には、エルドから羊毛がいくつ届いた、木材がいくつ届いた、と書かれている。
だが、生産できる量と運び出せる量は同じではない。
今日一日歩いただけでも、それはよく分かった。
「それでも羊は増えているようだな」
エウリュメドンが窓の外を顎で示した。
「麦よりは山に向いておりますから」
「山羊も多い」
「高いところまで登ります。羊毛、皮、乳、それに肉も取れます。山の奥なら蜂蜜もございますし、木も出せます」
「王宮ではエルドは貧しい土地だと言う者もいるぞ」
主人は少し困った顔をした。
「麦の量だけ見れば、そうでございましょうな」
その答えに、フィクスは思わず主人を見た。
エウリュメドンもわずかに笑った。
「プロテウスに聞かせてやりたいな」
「兄上?」
「王宮の書記官は、粘土板に書けるものを好む」
「それは……仕事だから仕方ないんじゃないですか」
「だからお前がここへ来たのだろう」
不意に話を振られ、フィクスは返事に詰まった。
主人がこちらを見る。
「第八王子殿下は、粘土板がお好きだとか」
「好きというか……」
「好きなのだろう」
エウリュメドンが先に決めてしまった。
否定しても仕方がないので、フィクスはパンをちぎった。
「読むのは好きです。でも、今日みたいな道は書いてないので」
主人が笑った。
「でしたら、山へ来られた甲斐がございますな」
そのまま穏やかに話が続くかと思ったが、エウリュメドンが杯を口へ運んだあと、声を少し低くした。
「途中で兵を何人か見た。ここの者か?」
「半分ほどは」
「残りは?」
「戻ってきた者たちです」
フィクスには意味が分からなかった。
エウリュメドンには通じたらしい。
「傭兵か」
「はい」
主人が頷く。
「エルドの若者は、昔から外へ出ます。土地が狭うございますから、息子が何人もいれば全員に十分な畑を持たせることはできません。それなら槍を持って働いた方がよい、と考える者もおります」
「山育ちなら歩ける」
「平地の兵ほど戦車には慣れませんが、足場の悪いところなら負けません。投槍や弓の上手い者もおります」
フィクスは昼間見た細い道を思い出した。
あそこでは戦車など持ち込んでも邪魔になるだけだろう。
「王宮の兵にもいる?」
「いる」
エウリュメドンが答えた。
「他国へ雇われる者もいる。この辺りでは、槍一本持って出ていくのも珍しくない」
その口調には、それを特別に褒める様子も蔑む様子もなかった。
山の暮らし方の一つとして知っているのだ。
「なら、山賊も元傭兵だったりする?」
尋ねると、広間の空気がほんの少し変わった。
アリタが壁際からこちらを見た。
聞き方を間違えたかと思ったが、主人は怒らなかった。
「おります」
あっさりした返事だった。
「ですが、山賊と一言で申しても、同じではございません」
「違うんですか?」
「山奥に住み、昔から旅人や他の谷を襲って暮らしている者たちもおります。家族ごと移りながら、羊を飼い、機会があれば奪う。そのような連中は、こちらでも手を焼いております」
「では、ほかは?」
今度はエウリュメドンが尋ねた。
主人は火へ目を向けた。
「去年まで普通に村で暮らしていた者が、今年は道に立っていることもございます」
「不作か」
「不作。家畜の病。借りたものを返せなくなった者。争いに負け、村を追われた者。傭兵に出たものの、雇い主を失って戻ってきた者もおります」
フィクスは黙った。
山賊という言葉から想像していたものより、ずっと境目が曖昧だった。
「全員まとめて討てば終わる、とはいかんか」
エウリュメドンが言った。
「本物の賊なら討ちます」
主人は即座に答えた。
「ですが冬に食うものを失った村まで敵に回せば、翌年には賊が倍になります」
第二王子が黙った。
ややあって、低く笑う。
「父上なら、面白くない話だと言うだろうな」
「王には王の務めがございます」
「そして、お前にはこの谷を明日も治める務めがあるか」
主人は頭を下げた。
「その通りでございます」
フィクスは二人を見比べた。
王宮から見れば、山賊が出るなら兵を送り、討てばよい。
けれどこの男は、討つ相手と戻す相手を分けようとしている。
それが甘いのか、それとも山で暮らすには必要なことなのか、フィクスにはまだ分からなかった。
ただ一つだけ、分かったことがある。
王宮で見ていたエルド山地の粘土板には、羊毛も木材も人の数も記されていた。
だが、谷と谷の間にどれほど険しい山があるのかも、槍を持って国を出る若者がなぜそうするのかも、昨日まで村人だった男が道を塞ぐようになる理由も書かれていない。
『面白くなってきた顔してるよ、マスター』
左手首から、ジェミニの声が頭の中へ届いた。
フィクスは杯へ手を伸ばしながら、返事をしなかった。
まだ一日しか山を歩いていない。
それなのに、王宮で知っていたエルド山地とは、もうずいぶん違う場所に見え始めていた。




