017 出発
出発の日、王宮の門前は夜明け前から騒がしかった。
荷を積んだロバが何頭も並び、その間を使用人たちが行き来している。少し離れたところでは護衛の兵が槍や盾を確かめ、馬の腹帯を締め直していた。フィクスが一年ほど暮らすための衣類や日用品だけなら、これほどの人数にはならない。王子の赴任である以上、王宮から随行する者もいれば、エリミオンまで同行して帰ってくる者もいる。さらに今回は、父王の名代として第二王子まで加わっていた。
フィクスは門の脇に立ちながら、その列を眺めた。
一年前、父からエリミオンへ行けと言われたときには、まだ先のことだと思っていた。
それが今日になった。
「殿下」
呼ばれて振り返ると、ドリュオンが立っていた。
「そろそろ出られます」
「分かった」
その後ろにはレオンがいる。十五になったレオンは、相変わらずフィクスより大きかった。王宮の稽古場で毎日のように向かい合っていた相手だが、今日から立場が少し変わる。
「なんか変な感じだな」
フィクスが言うと、レオンが首を傾げた。
「何が?」
「今までは毎朝俺を叩いてたのに、これからは守るんだろ」
「叩いてません。稽古です」
「似たようなもんだろ」
「全然違います」
即座に返され、フィクスは笑った。
ドリュオンとレオンはエリミオンまで同行するだけではない。そのまま現地に残り、フィクスの護衛となる。そのため二人だけではなく家族も一緒だった。荷物の量が多いのはそのせいでもある。
「向こうへ着いてからも稽古は続けますぞ」
ドリュオンが言った。
「……やっぱり?」
「当然です」
「管理人って忙しいと思うんだけど」
「朝に身体を動かす時間くらいはございます」
「あるかなあ」
「作ります」
逃げ道はないらしい。
『よかったね、マスター。生活が変わっても朝の日課は変わらないって』
左手首からジェミニの声が届いた。
姿は見せていない。
王宮を離れたからといって、ジェミニを人前に出せるようになるわけではなかった。少なくとも周囲に人がいる間は、ただのバングルである。
フィクスが返事をせず左手首を睨んでいると、隣にいたアリタが小さく笑った。
「どうしたの?」
「いえ、何も」
アリタも当然のように旅装を整えている。
考えてみれば、この世界へ来て以来、三人が王宮の外へ出るのは初めてだった。
そのことを意識した途端、少し楽しみになってきた。
王宮の粘土板でしか知らなかった土地へ行く。
畑も村も倉も、今度は数字ではなく自分の目で見ることができる。
「フィクス」
聞き慣れた声に振り返った。
母が立っていた。
その傍らには、同じ母から生まれた姉たちもいる。母は朝早くから見送りに出てきたらしく、薄い上衣を一枚余分に羽織っていた。
「母上」
「いよいよですね」
「はい」
そう答えると、母はしばらく息子の顔を見た。
「一年で、少しは大人になったかと思いましたが」
「なりましたよ」
「そうでしょうか」
「たぶん」
姉の一人が吹き出した。
「そこを自分で疑うの?」
「自信を持って嘘をつくよりいいだろ」
「そういうところは変わらないわね」
フィクスも笑ったが、母は笑いながらも少し寂しそうだった。
これまでも兄たちが王宮を離れることはあった。戦や使節、地方での役目もある。王子がいつまでも母のそばにいるわけではない。それでもフィクスにとっては、生まれてから暮らしてきた王宮を初めて離れる日だった。
母はフィクスの衣の肩に手を伸ばし、わずかに乱れていたところを直した。
「お身体には気をつけなさい」
「はい」
「アリタ」
「はい、妃殿下」
「この子をお願いします」
「承知しております」
「俺も十五なんだけど」
「十五だから心配なのです」
言い返せなかった。
姉たちからも、着いたら知らせを寄越せだの、エリミオンの娘に失礼なことをするなだのと言われているうちに、門前にはさらに人が増えていた。
プロテウスの姿もあった。
フィクスは少し驚いた。
「来てくれたんですか」
「殿下が王宮を離れるのです。見送りくらいはいたします」
「仕事は?」
「殿下が気にすることではございません」
相変わらずだった。
だが、一年前から何度となく座った老人の執務室へ、明日からは行けない。
そう思うと、急に何かが終わるような気がした。
「プロテウス」
「はい」
「いろいろ、ありがとうございました」
老人は少しだけ目を細めた。
「一年も粘土板を読まれたのです。もう十分でしょう」
「十分かな」
「王宮の粘土板は、です」
フィクスはプロテウスを見る。
「今度は、ご自分の目でご覧なさい。粘土板の向こうに何があるのかを」
以前なら、それを聞いただけで次の質問が出ていただろう。
だが今日は、ただ頷いた。
「はい」
プロテウスはそれ以上何も言わなかった。
やがて第二王子から声が掛かった。
「フィクス。いつまで別れを惜しんでいる。日が高くなるぞ」
「今行きます」
フィクスは母と姉たちにもう一度別れを告げ、待っている一行へ向かった。
第二王子が今回同行するのは、旅の護衛をするためではない。国王の名代としてエリミオン領主アルケシラオスに会い、フィクスの赴任と王家の意向を正式に伝えるためだった。婚姻の話もある以上、第八王子本人だけを送り込んで終わりというわけにはいかない。
そのため一行は、フィクスが想像していたよりずっと大きくなった。
「こんな人数で行く必要あるの?」
門を出てしばらくしてから、フィクスは前を行く兄に尋ねた。
第二王子が振り返った。
「お前は自分が何者か忘れたのか」
「第八王子」
「ならば王子らしくしていろ」
「管理人になりに行くだけなのに」
「その管理人が国王の息子だ」
兄は前へ向き直った。
「それに、エルド山地を越える」
その言葉で、フィクスは前方へ目を向けた。
まだ山は見えない。
王宮を出てしばらくは、見慣れた土地が続く。畑があり、オリーブの木があり、ときおり小さな集落が見える。だが、この道を進み続ければ、やがて景色は変わる。
「やっぱり山を通るんだ」
「ほかにどこを通る」
「海から行く方法もあるだろ」
「ある。アスファリアから船に乗って南を回ればな。だが今回は陸路だ」
フィクスは頭の中に、この一年で何度も確かめた地形を浮かべた。
アカイア王宮から西へ進み、半島中央部を横切る。その途中を塞ぐように広がっているのがエルド山地だった。それを越えてさらに南西へ下れば、ようやくエリミオンに入る。順調に進んでも数日はかかる。
「山の中って、馬車は?」
「通せるところまでは使う。峠では荷を分ける」
兄が答えるより先に、ドリュオンが後ろから口を挟んだ。
「狭いところがございます。ロバは通せても、車輪のあるものでは難しい道もあります」
「だからロバがこんなにいるのか」
フィクスは荷を背負って歩いている列を振り返った。
王宮で地図や記録を見ているときには、山越えという言葉一つで済んでいた。
実際に自分たちがそこを通るとなると、話が違う。
「山賊も出るのでしょう?」
アリタが尋ねた。
「ああ」
第二王子はこともなげに答えた。
「だからこれだけ連れてきた」
フィクスは周囲を歩く兵を見た。
槍を持つ者、弓を携えた者、盾を背負った者。王宮を出るときには少し大げさではないかと思っていたが、エルド山地では野盗が出るという話は、フィクスも以前から聞いていた。険しい山地を越える陸路では武装した護衛が必要になる。
「王子が二人いるって分かったら、むしろ狙われない?」
フィクスが尋ねると、兄が呆れたように振り返った。
「だから護衛がいるのだ」
「でも、王子が二人もいる一行を襲えば――」
「フィクス」
「はい」
「山賊が襲ってきたら、お前は考えなくてよい」
「え?」
「ドリュオンの後ろにいろ」
レオンが笑いを堪えた。
「今笑っただろ」
「笑ってません」
「絶対笑った」
「殿下」
ドリュオンの声が割って入る。
「第二王子殿下の仰るとおりです。もし襲撃があれば、殿下はアリタ殿とともに我々の内側へ。勝手に動かれぬようお願いいたします」
「分かってるよ」
「本当に?」
今度はレオンだった。
「お前まで言うの?」
「殿下、変なものを見つけるとすぐ近づくでしょう」
「山賊を見つけて近づくほど馬鹿じゃない」
『どうかなあ』
左手首から余計な声までした。
フィクスは無視した。
やがて王宮の城壁が遠ざかっていった。
振り返れば、門前に残った人々はもう顔を見分けられないほど小さい。それでも母や姉たちがまだそこにいるような気がして、フィクスはしばらく後ろを見ていた。
そのうち道が曲がり、城壁そのものが見えなくなった。
前には知らない道が続いている。
その先にエルド山地があり、さらに向こうにエリミオンがある。
粘土板では何度も見た土地だった。
王宮へ送られてくる穀物も油も、港を出入りする物資も、数字としてなら頭の中に残っている。だが、その数字がどんな畑から生まれ、どんな道を通り、どんな人間の手を経ているのかは知らない。
一年前、父に「一度見てみたい」と言った。
今、その場所へ向かっている。
「殿下」
隣を歩いていたアリタがフィクスを見る。
「楽しそうでございますね」
「そう見える?」
「はい」
フィクスは前を見た。
遠く、朝の霞の向こうに山並みが見え始めていた。
「うん」
今度は否定しなかった。
「楽しみなんだと思う」
あの山を越えれば、王宮の粘土板の向こう側がある。
まずはそこへ行って、自分の目で見る。
その先で何をすることになるのかは、まだ分からなかった。




