↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/99

017 出発

 

 出発の日、王宮の門前は夜明け前から騒がしかった。


 荷を積んだロバが何頭も並び、その間を使用人たちが行き来している。少し離れたところでは護衛の兵が槍や盾を確かめ、馬の腹帯を締め直していた。フィクスが一年ほど暮らすための衣類や日用品だけなら、これほどの人数にはならない。王子の赴任である以上、王宮から随行する者もいれば、エリミオンまで同行して帰ってくる者もいる。さらに今回は、父王の名代として第二王子まで加わっていた。


 フィクスは門の脇に立ちながら、その列を眺めた。


 一年前、父からエリミオンへ行けと言われたときには、まだ先のことだと思っていた。


 それが今日になった。


「殿下」


 呼ばれて振り返ると、ドリュオンが立っていた。


「そろそろ出られます」


「分かった」


 その後ろにはレオンがいる。十五になったレオンは、相変わらずフィクスより大きかった。王宮の稽古場で毎日のように向かい合っていた相手だが、今日から立場が少し変わる。


「なんか変な感じだな」


 フィクスが言うと、レオンが首を傾げた。


「何が?」


「今までは毎朝俺を叩いてたのに、これからは守るんだろ」


「叩いてません。稽古です」


「似たようなもんだろ」


「全然違います」


 即座に返され、フィクスは笑った。


 ドリュオンとレオンはエリミオンまで同行するだけではない。そのまま現地に残り、フィクスの護衛となる。そのため二人だけではなく家族も一緒だった。荷物の量が多いのはそのせいでもある。


「向こうへ着いてからも稽古は続けますぞ」


 ドリュオンが言った。


「……やっぱり?」


「当然です」


「管理人って忙しいと思うんだけど」


「朝に身体を動かす時間くらいはございます」


「あるかなあ」


「作ります」


 逃げ道はないらしい。


『よかったね、マスター。生活が変わっても朝の日課は変わらないって』


 左手首からジェミニの声が届いた。


 姿は見せていない。


 王宮を離れたからといって、ジェミニを人前に出せるようになるわけではなかった。少なくとも周囲に人がいる間は、ただのバングルである。


 フィクスが返事をせず左手首を睨んでいると、隣にいたアリタが小さく笑った。


「どうしたの?」


「いえ、何も」


 アリタも当然のように旅装を整えている。


 考えてみれば、この世界へ来て以来、三人が王宮の外へ出るのは初めてだった。


 そのことを意識した途端、少し楽しみになってきた。


 王宮の粘土板でしか知らなかった土地へ行く。


 畑も村も倉も、今度は数字ではなく自分の目で見ることができる。


「フィクス」


 聞き慣れた声に振り返った。


 母が立っていた。


 その傍らには、同じ母から生まれた姉たちもいる。母は朝早くから見送りに出てきたらしく、薄い上衣を一枚余分に羽織っていた。


「母上」


「いよいよですね」


「はい」


 そう答えると、母はしばらく息子の顔を見た。


「一年で、少しは大人になったかと思いましたが」


「なりましたよ」


「そうでしょうか」


「たぶん」


 姉の一人が吹き出した。


「そこを自分で疑うの?」


「自信を持って嘘をつくよりいいだろ」


「そういうところは変わらないわね」


 フィクスも笑ったが、母は笑いながらも少し寂しそうだった。


 これまでも兄たちが王宮を離れることはあった。戦や使節、地方での役目もある。王子がいつまでも母のそばにいるわけではない。それでもフィクスにとっては、生まれてから暮らしてきた王宮を初めて離れる日だった。


 母はフィクスの衣の肩に手を伸ばし、わずかに乱れていたところを直した。


「お身体には気をつけなさい」


「はい」


「アリタ」


「はい、妃殿下」


「この子をお願いします」


「承知しております」


「俺も十五なんだけど」


「十五だから心配なのです」


 言い返せなかった。


 姉たちからも、着いたら知らせを寄越せだの、エリミオンの娘に失礼なことをするなだのと言われているうちに、門前にはさらに人が増えていた。


 プロテウスの姿もあった。


 フィクスは少し驚いた。


「来てくれたんですか」


「殿下が王宮を離れるのです。見送りくらいはいたします」


「仕事は?」


「殿下が気にすることではございません」


 相変わらずだった。


 だが、一年前から何度となく座った老人の執務室へ、明日からは行けない。


 そう思うと、急に何かが終わるような気がした。


「プロテウス」


「はい」


「いろいろ、ありがとうございました」


 老人は少しだけ目を細めた。


「一年も粘土板を読まれたのです。もう十分でしょう」


「十分かな」


「王宮の粘土板は、です」


 フィクスはプロテウスを見る。


「今度は、ご自分の目でご覧なさい。粘土板の向こうに何があるのかを」


 以前なら、それを聞いただけで次の質問が出ていただろう。


 だが今日は、ただ頷いた。


「はい」


 プロテウスはそれ以上何も言わなかった。


 やがて第二王子から声が掛かった。


「フィクス。いつまで別れを惜しんでいる。日が高くなるぞ」


「今行きます」


 フィクスは母と姉たちにもう一度別れを告げ、待っている一行へ向かった。


 第二王子が今回同行するのは、旅の護衛をするためではない。国王の名代としてエリミオン領主アルケシラオスに会い、フィクスの赴任と王家の意向を正式に伝えるためだった。婚姻の話もある以上、第八王子本人だけを送り込んで終わりというわけにはいかない。


 そのため一行は、フィクスが想像していたよりずっと大きくなった。


「こんな人数で行く必要あるの?」


 門を出てしばらくしてから、フィクスは前を行く兄に尋ねた。


 第二王子が振り返った。


「お前は自分が何者か忘れたのか」


「第八王子」


「ならば王子らしくしていろ」


「管理人になりに行くだけなのに」


「その管理人が国王の息子だ」


 兄は前へ向き直った。


「それに、エルド山地を越える」


 その言葉で、フィクスは前方へ目を向けた。


 まだ山は見えない。


 王宮を出てしばらくは、見慣れた土地が続く。畑があり、オリーブの木があり、ときおり小さな集落が見える。だが、この道を進み続ければ、やがて景色は変わる。


「やっぱり山を通るんだ」


「ほかにどこを通る」


「海から行く方法もあるだろ」


「ある。アスファリアから船に乗って南を回ればな。だが今回は陸路だ」


 フィクスは頭の中に、この一年で何度も確かめた地形を浮かべた。


 アカイア王宮から西へ進み、半島中央部を横切る。その途中を塞ぐように広がっているのがエルド山地だった。それを越えてさらに南西へ下れば、ようやくエリミオンに入る。順調に進んでも数日はかかる。


「山の中って、馬車は?」


「通せるところまでは使う。峠では荷を分ける」


 兄が答えるより先に、ドリュオンが後ろから口を挟んだ。


「狭いところがございます。ロバは通せても、車輪のあるものでは難しい道もあります」


「だからロバがこんなにいるのか」


 フィクスは荷を背負って歩いている列を振り返った。


 王宮で地図や記録を見ているときには、山越えという言葉一つで済んでいた。


 実際に自分たちがそこを通るとなると、話が違う。


「山賊も出るのでしょう?」


 アリタが尋ねた。


「ああ」


 第二王子はこともなげに答えた。


「だからこれだけ連れてきた」


 フィクスは周囲を歩く兵を見た。


 槍を持つ者、弓を携えた者、盾を背負った者。王宮を出るときには少し大げさではないかと思っていたが、エルド山地では野盗が出るという話は、フィクスも以前から聞いていた。険しい山地を越える陸路では武装した護衛が必要になる。


「王子が二人いるって分かったら、むしろ狙われない?」


 フィクスが尋ねると、兄が呆れたように振り返った。


「だから護衛がいるのだ」


「でも、王子が二人もいる一行を襲えば――」


「フィクス」


「はい」


「山賊が襲ってきたら、お前は考えなくてよい」


「え?」


「ドリュオンの後ろにいろ」


 レオンが笑いを堪えた。


「今笑っただろ」


「笑ってません」


「絶対笑った」


「殿下」


 ドリュオンの声が割って入る。


「第二王子殿下の仰るとおりです。もし襲撃があれば、殿下はアリタ殿とともに我々の内側へ。勝手に動かれぬようお願いいたします」


「分かってるよ」


「本当に?」


 今度はレオンだった。


「お前まで言うの?」


「殿下、変なものを見つけるとすぐ近づくでしょう」


「山賊を見つけて近づくほど馬鹿じゃない」


『どうかなあ』


 左手首から余計な声までした。


 フィクスは無視した。


 やがて王宮の城壁が遠ざかっていった。


 振り返れば、門前に残った人々はもう顔を見分けられないほど小さい。それでも母や姉たちがまだそこにいるような気がして、フィクスはしばらく後ろを見ていた。


 そのうち道が曲がり、城壁そのものが見えなくなった。


 前には知らない道が続いている。


 その先にエルド山地があり、さらに向こうにエリミオンがある。


 粘土板では何度も見た土地だった。


 王宮へ送られてくる穀物も油も、港を出入りする物資も、数字としてなら頭の中に残っている。だが、その数字がどんな畑から生まれ、どんな道を通り、どんな人間の手を経ているのかは知らない。


 一年前、父に「一度見てみたい」と言った。


 今、その場所へ向かっている。


「殿下」


 隣を歩いていたアリタがフィクスを見る。


「楽しそうでございますね」


「そう見える?」


「はい」


 フィクスは前を見た。


 遠く、朝の霞の向こうに山並みが見え始めていた。


「うん」


 今度は否定しなかった。


「楽しみなんだと思う」


 あの山を越えれば、王宮の粘土板の向こう側がある。


 まずはそこへ行って、自分の目で見る。


 その先で何をすることになるのかは、まだ分からなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。