016 第八王子の結婚話
父王から呼び出しが来たのは、以前の下問からしばらく経った日のことだった。
フィクスは先触れを受け取ったとき、また粘土板のことだろうかと思った。あれ以来、父から直接呼ばれることはなかったし、プロテウスのところへ通うことも許されている。少なくとも何か叱責されるようなことをした覚えはない。
広間へ入ると、アガメムノン三世は以前と同じ席にいた。
「来たか」
「はい、父上」
「座れ」
フィクスが腰を下ろすのを待って、王は言った。
「以前、地方を見てみたいと言っていたな」
フィクスは一瞬、何の話か分からなかった。
すぐに思い出す。
「……はい」
「ならば行かせる」
あまりに簡単に言われて、返事が遅れた。
「どこへ、ですか?」
「エリミオンだ」
聞き覚えはあった。粘土板で何度も見た地名だった。
「そこに王家のコトナがある。お前に預ける」
フィクスは父の顔を見た。
「私に?」
「管理人としてな」
ようやく話の意味が分かり始めた。
地方を見たいとは確かに言った。
畑を見たい。村を見たい。王宮へ届く粘土板に刻まれた数字の向こう側を、自分の目で確かめてみたい。
だが――。
「見るだけじゃなくて?」
「当たり前だ」
王が鼻を鳴らした。
「王子を物見遊山に出すと思ったか」
「いえ……」
思っていた。
言わなくてよかった。
「赴任は一年後だ。それまでに必要なことを覚えろ。今の管理人には、お前が行った後もしばらく残らせる。いきなり一人で何もかもやれとは言わん」
その言葉には少し安心した。
一年ある。
それなら準備はできる。
フィクスの頭の中では、もうエリミオンについて見た粘土板が浮かび始めていた。どれほどの穀物が上がっていたか。羊毛はどうだったか。油は――。
「それからもう一つある」
父の声で、思考が途切れた。
「はい」
「妻を決めた」
「……はい?」
今度は、本当に意味が分からなかった。
アガメムノン三世は息子の顔を見ている。
「エリミオン領主アルケシラオスの三女、フィロメラだ。お前の妻にする」
エリミオン。
今度は土地ではなく、人の名前が一緒についてきた。
「結婚するんですか、私が?」
「他に誰がいる」
「いや、そうじゃなくて……」
フィクスは言葉に詰まった。
十四歳になったばかりである。この時代なら王族の婚姻話そのものはおかしくないと分かってはいる。分かってはいるのだが、自分のこととなると話が違った。
「すぐではない」
父は続けた。
「まずエリミオンへ行け。婚姻の時期は、その後アルケシラオスと話して決める」
「相手には?」
「すでに話を送ってある」
フィクスの知らないところで、自分の結婚話はずいぶん先まで進んでいるらしい。
「何か不満があるか」
「……相手の人に会ったことがないんですけど」
「だからエリミオンへ行くのだろう」
なるほど。
なるほどなのだろうか。
フィクスが考えている間に、父の中では話が終わったらしい。
「一年ある。遊んでいる暇はないぞ」
「はい」
「プロテウスにも話しておく。何を学ぶべきかは、あれに聞け」
フィクスは礼をして退出した。
廊下へ出てからもしばらく黙って歩いた。
エリミオン。
コトナ。
管理人。
結婚。
最後の一つだけが、どうしてもほかの三つと同じところに収まってくれなかった。
自室へ戻ると、フィクスはアリタに扉を閉めてもらった。
廊下を確かめたアリタが戻り、ジェミニが姿を現す。
『で、マスター。七十点取った結果がこれ?』
「俺に言うなよ」
フィクスは寝台へ腰を下ろした。
「一年後にエリミオン。王家のコトナの管理人。それから結婚」
『最後だけ急に種類が違うね』
「俺もそう思う」
アリタは笑わなかった。
「フィロメラ様については、調べる必要がございますね」
「うん。でも、その前にコトナだ」
『マスターらしいなあ』
「だって一年後だぞ。結婚は行ってからだろ。こっちの方が先だ」
フィクスは卓へ移った。
「ジェミニ。コトナって、俺が思ってるので合ってる?」
『だいたいはね。ただ、現代の農場を想像しない方がいいよ』
ジェミニがフィクスの向かいに座る。
『王家に属する土地と、そこに結びついた生産や人の管理単位と考えた方が近い。マスターが行くなら、畑だけ見てればいいわけじゃない。そこで何が作られて、どれだけ集めて、何を残して、どこへ送るか。人も倉も家畜も関わってくる』
「王宮で見てたものの、反対側か」
口にしてから、フィクスは少し違うと思った。
王宮の倉庫では、運び込まれたものを見ていた。
大麦がいくつ。油がいくつ。羊毛がいくつ。
けれどエリミオンへ行けば、その数字になる前を見ることになる。
「粘土板、残ってるよな」
『王宮に来ている分はね』
「エリミオンの分だけ集めて見たい。何年か遡って」
『そう言うと思った』
ジェミニが笑う。
「だって、何も知らないで行くよりいいだろ」
「何をご覧になりますか?」
アリタに尋ねられ、フィクスはすぐには答えなかった。
穀物。
油。
葡萄酒。
羊毛。
家畜。
思いつくものはいくつもある。
だが、それだけでは足りない。
「まず、何が王宮に来てるのか。それが毎年どのくらい変わってるかかな。それから、王宮からエリミオンへ送ってるものも見たい」
『それだけ?』
「……港があったよね?」
以前、別の記録を調べたときに見た覚えがあった。
『あるよ』
ジェミニの返事を聞いて、フィクスは立ち上がった。
頭の中で、ぼんやりしていた土地に少しずつ形がつき始める。
「じゃあ、船の出入りもある」
『そうなるね』
「王宮へ送る物が全部陸路とは限らない?」
『限らない。エリミオンは海とのつながりを考えないと土地の性格を見誤ると思う』
フィクスは卓に手をついた。
王宮の粘土板で見られるのは、そのうち王宮が記録した部分だけだ。
「未来では、どんな土地だった?」
ジェミニが少し間を置いた。
『後世の地形や考古学的な情報をそのまま今に当てはめるのは危ないけど――海に開けた土地だよ。港を使える意味は大きい。内陸だけ見て考える場所じゃない』
「畑があって、村があって、王家のコトナがあって、領主がいて、その外に港がある……」
言いながら、フィクスは首を傾げた。
違う。
港が「その外」にあると考えるから分かりにくいのだ。
畑でできたものが倉へ入り、その一部が王宮へ向かう。けれど港があるなら、物の流れは王宮へ向かう一本だけではないはずだった。船で何かが入り、何かが出る。そこには王家の管理するものだけでなく、領主や土地の人々が動かすものもあるかもしれない。
「……面白そうだな」
『出た』
「何が」
『その顔』
ジェミニに指摘されて、フィクスは自分が笑っていることに気づいた。
アリタが呆れたようにこちらを見ている。
「マスター。赴任されるのでございますよ」
「分かってるよ」
「見学ではございません」
「それも分かってる」
『しかも婚約者候補の実家の領地』
「……それは今思い出させなくていい」
ジェミニが笑った。
フィクスは再び腰を下ろした。
一年。
長いようで、それほど長くはない。
まずプロテウスに頼んで、エリミオン関係の粘土板を集める。現在の管理人が王宮へ送ってきた報告も読みたい。王家のコトナがどれほどの規模で、何人を抱え、領主側の土地とどう接しているのかも知らなければならない。
港についても調べる必要がある。
それでも分からないことは残る。
いや、きっと調べるほど増える。
以前なら、それが不安だった。
今は少し違った。
「一年あれば、準備できるな」
『全部分かってから行こうとは思わないこと』
「分かってる」
フィクスは答えながら、父の前で自分が言ったことを思い出していた。
粘土板に大麦が百と書いてあっても、その場所を知らなければ、それが多いのか少ないのか分からない。
あのときは、本当に一度見てみたいと思っただけだった。
まさか父が、土地を見るだけではなく管理までさせるとは思わなかったが。
フィクスは苦笑した。
「父上って、私が思ってたより話をちゃんと聞いてたんだな」
『次から発言には気をつけようね、マスター』
「本当にそうする」
アリタが小さく笑った。
一年後、粘土板の地名でしかなかったエリミオンへ行く。
そこで初めて、数字になる前のものを見ることになる。
そして、どうやら――未来の妻になるかもしれない少女にも会うらしい。
そちらについては、まだ何を調べればよいのかさえ、フィクスには分からなかった。




