015 フィロメラの結婚話
屋形へ戻った頃には、午後の日差しもだいぶ傾いていた。作業所で長く立っていたせいか、フィロメラは自室へ戻る前に少し休みたいと思っていたが、玄関を入ったところで母が足を止めた。
待っていた使用人が、主人が二人を呼んでいると告げたからだった。
「お父様が?」
「はい。お戻りになりましたら、すぐにお二人を、と」
母の表情がわずかに変わった。フィロメラにもそれは分かった。急ぎの用件なら使いを作業所へ寄越せばいい。それをせず、帰ったらすぐに来るようにと言い残している。領内で何かあったのだろうか。
二人はそのまま父のいる部屋へ向かった。
アルケシラオスは卓の前に座っていた。普段なら娘が母の仕事について出た日は、何を見てきたと一言くらい尋ねるのだが、今日はそれがなかった。
「座りなさい」
母が父の向かいに腰を下ろし、フィロメラもその隣へ座った。
「何かございましたか」
母が尋ねると、父はしばらく二人を見てから口を開いた。
「王宮から使者が来た」
フィロメラは母を見た。
エリミオンに王宮から使者が来ること自体は珍しくない。納める物資についての命令もあれば、兵や人夫を求められることもある。けれど、それなら父が母と自分だけを呼ぶ理由が分からなかった。
「フィロメラに縁談が来た」
今度は、意味が分かった。
母が背筋を伸ばした。
フィロメラは何も言えなかった。いつかそういう日が来ることは知っていた。母について仕事を覚えてきたのも、そのためだった。どのような家へ嫁ぐにせよ、妻が何も知らずにいてよいわけではないと、母から何度も教えられてきた。
ただ、その「いつか」が今日だとは思っていなかった。
「どちらの家です?」
母の問いに、父はすぐには答えなかった。
「王家だ」
フィロメラは顔を上げた。
母も一瞬、言葉を失ったらしい。
「……王家?」
「アガメムノン陛下の第八王子、フィクス殿下だ」
部屋が妙に静かになった。
王子。
フィロメラは自分の膝の上で重ねていた指に力が入るのを感じた。
縁談の相手として、近隣の領主や有力者の息子なら考えたことがある。姉たちの話を聞いていれば、いずれ自分にも似た話が来るのだろうと思っていた。だが王子となれば、話が違う。
「陛下から、直々にですか」
「ああ」
母は驚きを表に残したまま、すぐに別のことを考え始めたようだった。
「なぜフィロメラなのでしょう」
「私もそれを考えている」
父は腕を組んだ。
「殿下は王位を継ぐ立場から遠い。フィロメラも三女だ。王家から見れば、釣り合いを取りやすかったということだろう」
それを聞いて、フィロメラは少しだけ息をつけた。自分が何か特別な理由で選ばれたわけではないらしい。
しかし母はまだ納得していなかった。
「それだけですか?」
「いや」
父の声が低くなった。
「フィクス殿下は、こちらへ来る」
「エリミオンへ?」
「王家のコトナを預けられるそうだ。管理人としてな」
母の顔から驚きが消えた。
フィロメラにも、その変化の意味は分かった。
エリミオンにある王家の土地は父のものではない。王家の人間が管理する場所であり、王宮との連絡もそこを通る。そこへ今度は役人ではなく、王の息子が来る。
「あなたを疑っておられるのですか」
母が静かに尋ねた。
「分からん」
父は否定しなかった。
「だから調べさせた」
アルケシラオスはそこで初めて、少し困ったような顔をした。
「ところが、よく分からん王子だ」
「どういうことです?」
「武芸は不得手。兄たちのように戦場で名を上げてもいない。王宮の政に口を出している様子もない。以前は、ほとんど人の記憶に残らぬ王子だったらしい」
それなら、とフィロメラは思った。
なぜ、その人がコトナを任されるのだろう。
疑問が顔に出たのか、父が娘を見る。
「最近になって最高財務官プロテウスのところへ出入りして、粘土板を読んでいるそうだ」
「書記官なのですか?」
「いや。王子だ」
父が苦笑した。
「だから分からんと言っている」
母もわずかに笑ったが、すぐに考え込んだ。
「王宮で居場所のない王子に、地方で経験を積ませる。そのついでに、あなたとの関係も強めておこうと陛下がお考えになった……」
「おそらくはな」
「お断りには?」
母の問いに、父は眉を上げた。
「できると思うか?」
「思いません」
今度は二人とも笑った。
フィロメラだけは笑えなかった。
父はそんな娘を見て、少し声を和らげた。
「悪い話ではない」
その言葉が、領主としてのものなのか父親としてのものなのか、フィロメラにはすぐには分からなかった。
「王家との縁ができる。それだけでも我が家には大きい。しかも、お前が遠く王宮へ連れていかれるわけではない。殿下はこちらへ来て、王家のコトナを預かる。婚姻の後は、お前が殿下のもとへ嫁ぐことになる」
母がそこで初めて、ほっとしたように息を吐いた。
「それなら……」
その先を言わず、母はフィロメラを見た。
フィロメラにも分かる。
知らない土地へ嫁ぐのではない。
見知らぬ屋形で、見知らぬ使用人に囲まれるのでもない。今日歩いた道も、さっきまでいた作業所も、神殿も畑も、ずっと見てきたエリミオンの中にいられる。
母が教えてくれたことも無駄にならない。
それでも、相手は知らない人だった。
「お母様は、どう思われますか」
フィロメラが尋ねると、母はすぐには答えなかった。
「王子であることだけなら、喜ぶべきでしょうね」
母は娘の顔を見たまま続けた。
「けれど、私はあなたの母です。どれほど身分の高い方でも、娘を粗末に扱う方なら喜べません」
フィロメラは目を伏せた。
「ただ、エリミオンへ来られるのでしょう?」
「そのようだ」
「ならば、見ることはできます」
父が母を見る。
「何をだ」
「殿下ご自身をです」
母は当たり前のように答えた。
「王宮で何と言われているかより、こちらへ来て、人にどう接するのか。コトナの者をどう扱うのか。困ったときに怒鳴る方なのか、人の話を聞く方なのか。そのほうが大切でしょう」
父はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「それはそうだな」
フィロメラは二人の会話を聞きながら、先ほどまでいた作業所を思い出していた。
手を痛めた織り手がいた。色の揃わない布もあった。予定どおりに進んでいない仕事もあった。
帳簿だけを見ていたら、きっと分からないことばかりだった。
粘土板を読む王子。
その人は、粘土板に書かれた数字の向こうにいる人々を、どう見るのだろう。
「フィロメラ」
父に呼ばれて顔を上げた。
「お前はどう思う」
答えなければならない。
怖くないと言えば嘘になる。嬉しいのかと聞かれても、まだ分からない。王子との婚約と言われても、相手の顔すら知らないのだから、喜びようも嫌がりようもなかった。
だからフィロメラは、自分に分かることだけを答えた。
「お会いしてみたいです」
父が目を細める。
「フィクス殿下にか」
「はい」
フィロメラは頷いた。
「どんな方なのか、自分で見てみたいです」
母が微笑んだ。
フィロメラはもう一度、膝の上の手を見た。
王子だからではない。
夫になるかもしれない人だから、知りたい。
まずは、それでよいように思えた。




