014 フィロメラ
作業所へ近づくにつれて、乾いた機音がはっきりと聞こえるようになった。木枠の軋む音に、糸を打ち込む規則正しい響きが重なり、ときおり女たちの声がその間を抜けてくる。フィロメラは母の半歩後ろを歩きながら、開け放たれた入口の向こうへ目を向けた。
領主館からここまでは歩けばそれなりに距離がある。母がわざわざ足を運ぶのは、今回頼んだものが普段着や館で使う布ではないからだった。
近づいてきた作業所の女に、母が声をかける。
「祭礼まで、あとどれほどでしたか」
「二十日あまりでございます、奥方様」
「では、今日見せてもらったあとで織り直しを頼んでも、間に合うものと間に合わないものが出ますね」
「はい」
女の返事に、わずかな緊張が混じった。母はそれ以上何も言わず、奥へ進んでいく。フィロメラも続いた。
中には思っていた以上の量の布があった。織り上がったものは巻かれて壁際に積まれ、まだ機に掛かっているものも少なくない。羊毛の匂いに染料の匂いが混じり、窓から差し込む光の中では、細かな毛羽がゆっくりと舞っていた。
今回まとめて頼んだ布は、神殿へ納めるものだけではない。祭礼の日には神像や祭具を飾り、神殿の前にも布を張る。行列や供犠の場にも使うため、必要な量は領主館の宴一度で使う布とは比べものにならなかった。
「まず、できているものを」
母がそう言うと、女たちが壁際から一巻きを運んできた。二人がかりで卓の上へ置き、巻きをほどいていく。赤く染められた布が広がると、母は端を持ち上げ、指先で織り目を確かめた。
「フィロメラ」
「はい」
「見てごらんなさい」
母が示したところへ顔を寄せる。一見しただけなら、よく織れているように見える。染めにも大きなむらはない。だが、指で撫でていくと途中で感触が変わった。
「ここ……少し詰まっています」
「そうね。では、使えませんか?」
フィロメラはすぐには答えなかった。母がこういう聞き方をするとき、欲しがっているのは「使える」「使えない」という返事ではない。
布を少し離れて見直した。神像の前へ掛けるなら、見る者の目は自然と中央へ向かう。この部分がそこへ来れば、光の当たり方によっては織りの違いが目につくかもしれない。
「神像の前には使いたくありません。でも、長く張る布なら、端へ回せば」
母が小さく頷いた。
「そうしましょう。神前へ納めるものと、祭礼の場に使うものを分けておいてください」
「かしこまりました」
作業所の女が布を巻き戻そうとしたところで、フィロメラはその手を止めた。
「待って。この印は何?」
端近くに、別の色の糸がほんの短く織り込まれている。
「織った者を分ける印でございます」
「同じ人が織ったものは、ほかにもありますか」
何巻かが運ばれてきた。広げて比べてみると、似たような詰まりが二枚にあった。偶然というには同じ場所に寄りすぎている。
「この人、何か変わったことはありませんでしたか」
女は少し考えてから、「しばらく手を痛めております」と答えた。
フィロメラは母を見た。
「織り直させますか?」
「あなたなら?」
「神前に使う分は、ほかの人にお願いしたほうがいいと思います。この人には……急がないものを」
母はすぐに答えず、布の端をもう一度確かめてから作業所の女へ顔を向けた。
「そのように。けれど仕事から外してはいけません。手を痛めているなら、できるものを回してください」
「はい、奥方様」
次に出されたのは、染め上がったばかりの青い布だった。フィロメラが手を伸ばそうとすると、母が視線だけで止めた。
「何を見るの?」
フィロメラは手を引っ込めた。色そのものではない。これだけの布を一度に使えば、隣り合った布の色が違うだけでも目立つ。
「前にできたものと並べます」
以前に仕上がった一巻きが持ってこられた。並べてみると、新しい布のほうがわずかに明るい。
「染め直しますか」と女が恐る恐る尋ねた。
フィロメラは布を見比べた。染め直せば色が揃うとは限らない。それに祭礼までの日数を考えれば、余計な作業を増やすほうが危うい。
「これは同じ場所に並べないほうがいいと思います。こちらを神殿の入口側に、濃いほうを奥に使えば……」
母の目がわずかに細くなった。
「なぜ?」
「入口のほうが明るいからです。少しくらい違っても、同じ色には見えないでしょうか」
母は作業所の入口へ目をやった。午後の日差しが床を白く照らしている。
「ええ。それなら使えます」
その言葉を聞いて、染めを担当したらしい女が目に見えて息をついた。
検分はそれで終わらなかった。祭具を包むための布は厚みを確かめ、柱や柵に掛ける長布は端の処理を見る。まだ機に掛かっているものについては、母が一枚ごとの進み具合を尋ねていった。そして、祭礼までに間に合うだろうという感触を得た。
フィロメラはその横で聞いていたが、やがて妙なことに気づいた。
「お母様」
「何です?」
「これでは、最後の数日が大変になりませんか」
母が振り返る。
フィロメラは作業所を見渡した。すでに完成しているものも多い。けれど、まだ半分ほどしか進んでいない機もある。それも一つではなかった。
「今できているものだけを見ると、ずいぶん進んでいるように見えます。でも、遅れているものが同じ頃に仕上がるのではないでしょうか?だとすると、織り上げることと布を確認することが一度に…」
母は答えず、作業所を預かる女へ尋ねた。
「一日に、何枚までなら仕上がった布を確認できますか」
女は困ったように目を伏せた。
母がフィロメラを見る。
「気づいたなら、どうします?」
フィロメラは少し考えた。織る手を急がせれば、さっきのような不揃いが増えるかもしれない。
「早くできるものから仕上げてもらいます。全部を祭礼の直前に揃えて確認する必要はありません。できた布からこちらで確かめて、神殿へ運べるものは先に分けておけば……」
「そうですね」
母はそこで初めて微笑んだ。
「では、そのようにお願いしましょう」
作業所を出る頃には、日が少し傾いていた。中ではもう機の音が戻っている。
帰り道、母はしばらく何も言わなかった。フィロメラも黙って隣を歩いていたが、やがて母が口を開いた。
「上手に織れるかどうかだけを見ていては、領主家の仕事にはなりませんよ」
「はい」
「けれど、今日はよく見ていました」
それだけ言って、母は前を向いた。
フィロメラは少しだけ頬を緩めた。祭礼まで二十日あまり。明日になれば、また別の仕事が待っている。今日見つけた遅れも、布の色の違いも、些細な躓きは誰も知らなくて良い。
祭礼の準備は全て順調にいった。そうなるように整えておくのが、自分たちの仕事なのだろう。




