013 父王からの下問
呼び出しが来たのは、プロテウスが王の下問を受けてから三日後だった。
朝食の途中で先触れを受けたフィクスは、とうとう来たかと思ったものの、口に出したのは「分かりました」だけだった。ジェミニとは前夜までに何度も話している。何も知らないふりはしない。だが、聞かれていないことまで話さない。分かったことがあっても、頭の中でいくつもの記録を結びつけているところまでは見せない。
それでも、父の居室へ向かう廊下を歩いていると、決めておいたことが少しずつ頼りなくなってきた。
『マスター、七十点』
左手首からジェミニの声が頭の中へ届く。
「分かってる」
『百点取りにいかない』
「分かってるって」
後ろを歩くアリタから返事はなかった。だが、視線だけで同じことを言われている気がした。
広間へ入ると、アガメムノン三世は奥の席にいた。
久しぶりに真正面から見る父は、やはり大きかった。座っていても肩の厚みが目につき、こちらを見る目には、プロテウスとは違う圧がある。老人の視線が中身を探るものなら、父のそれは相手が耐えるかどうかを試しているように感じられた。
フィクスは進み出て礼をした。
「来たか」
「はい、父上」
「そこへ座れ」
示された腰掛けへ座る。アリタは広間の入口近くで控えた。
「プロテウスのところへ、よく出入りしているそうだな」
いきなりだった。
「はい」
「一年もか」
「そのくらいになります」
「何をしている」
「古い粘土板を見せてもらっています」
「聞いている」
王の指が肘掛けを一度叩いた。
「なぜだ」
これも予想していた。
「面白いからです」
王の眉が動いた。
「粘土板が?」
「はい」
「穀物がいくつ届いた、油をいくつ出した、そのようなものが面白いのか」
「最初はそうでもなかったです」
「では、何が面白い」
フィクスは少し考えた。考えてから答えること自体も、昨夜決めたことだった。
「同じところでも、毎年同じじゃないからです」
「何がだ」
「大麦の量だったり、油だったり、羊毛だったり。去年と違うから、その前を見る。そうすると、たまに理由が分かります。不作だったとか、羊が減っていたとか」
「それだけか」
もっとある。
港の出入り、工房への配給、地方ごとの変動。それらを重ねれば、個々の粘土板だけでは見えなかったものが浮かぶことがある。
だが、それは言わない。
「それだけでも、けっこう面白いです」
アガメムノン三世はしばらく息子を眺めていた。
武芸の話をすれば目を伏せることの多かった子である。兄たちと並べれば身体も小さく、剣を持たせても精彩がない。幼い頃から目立つこともなく、王自身、八人いる王子の一人として以上に気に留めたことはほとんどなかった。
その息子が、粘土板の話になるとこちらの目を見ている。
プロテウスが面白がる理由は、そのあたりかもしれない。
「数字をよく覚えるそうだな」
「前に見たものなら、覚えてることもあります」
「では聞こう。去年、北の土地から羊毛が少なかったとする。なぜだ」
来た。
フィクスは反射的に考えかけ、止めた。
「それだけじゃ分かりません」
王の目が細くなる。
「考えろ」
「前の年の記録を見てもいいですか?」
「なぜだ」
「今年だけ少ないのか、その前から減ってるのか分からないからです。羊そのものが減ってるかもしれないし、別の理由かもしれない」
「すぐには分からぬか」
「分からないです」
嘘ではなかった。
条件が足りない。
アガメムノン三世は小さく鼻を鳴らした。
プロテウスから聞いていたほどではない。
もっとも、答えを作って得意げに口にするよりはましだった。分からぬものを分からぬと言う程度の頭はあるらしい。
「一年も粘土板を見て、それで何をしたい」
フィクスは一瞬だけ黙った。
これが一番危ない質問だった。
「まだ分かりません」
「一年も見ておいてか」
「一年見たら、分からないことが増えました」
王が片眉を上げた。
「妙なことを言うな」
「最初は、王宮に来たものを見れば分かると思ってたんです。でも、王宮の粘土板に書いてあるのは、王宮へ来たものですよね」
「そうだ」
「村で本当はどれくらい取れたのかとか、どんな畑なのかとか、そこまでは分からない」
言ったところで、フィクスは少しだけ後悔した。
これは話しすぎたかもしれない。
しかし王は止めなかった。
「それを知ってどうする」
「どうするかは、まだ分かりません」
「またそれか」
「はい」
フィクスは苦笑しかけたが、父の前だと思い出して堪えた。
「ただ、一度見てみたいです」
「何を」
「粘土板に書いてある場所をです」
王の指が止まった。
「地方へ行きたいと?」
「機会があるなら」
「何をしに行く」
「見に行くんです。畑とか村とか、倉とか。粘土板に大麦が百って書いてあっても、百が多いのか少ないのか、その場所を知らなきゃ分からないでしょう」
王は何も言わなかった。
フィクスはその沈黙に耐えながら、余計なことを付け足さないよう口を閉じた。
アガメムノン三世は、目の前の少年を改めて眺めていた。
やはり武人にはならない。
肩にも腕にも兄たちのような強さはなく、十四になった今も戦場で名を上げる姿は想像しにくい。王位を争わせるような器にも見えなかった。
だが、愚鈍でもない。
粘土板そのものが好きなのではなく、その向こうにある土地へ関心を向けている。プロテウスほどの男が一年も相手をしている理由も、少しは分かった。
とはいえ、王宮の政務に引き上げるほどではない。
答えを問えば資料を見たいと言う。何がしたいかと聞けば、まだ分からないと言う。才覚がないわけではないが、野心も覇気も薄い。
――変わった奴だ。
王はそう結論づけた。
だが、その直後、別の考えが頭をよぎった。
剣では使えない。
しかし、一年も帳簿を眺めて飽きず、土地そのものを見たがっている。
ならば、いずれ土地の一つでも扱わせれば、何ができるかくらいは分かるかもしれない。
まだ、それ以上のことを考える必要はなかった。
「フィクス」
「はい」
「プロテウスの邪魔はするな」
「してません」
「それは本人に聞く」
「……はい」
王の口元がわずかに緩んだ。
「だが、粘土板を見ることまでは禁じぬ。好きにしろ」
「ありがとうございます」
「それと」
フィクスが顔を上げる。
王は何かを言いかけたが、やめた。
「いや、よい。下がれ」
「はい」
礼をして広間を出る。扉が閉まったところで、フィクスはようやく肩から力を抜いた。
『七十点』
ジェミニの声が頭の中に響いた。
「取れた?」
『たぶんね』
後ろからついてきたアリタも、わずかに表情を緩めている。
少なくとも、父に財務を任せると言われることはなかった。
それで十分だった。
フィクスはそう思いながら歩き出した。
広間の中で父が、自分に土地を扱わせることを考え始めているとは、知る由もなかった。




