恋は海を渡って~1
マチルダの瞳から涙があふれ、公爵はハンカチを取り出し優しく拭いた。
「すまない、君にとっても辛い話だったよね」
「いいえ、話していただいてよかったわ」
ナイフで脅してまでアンナローゼに迫ったのは、彼女が憎かったというより、まったく記憶がないことへの苛立ちからだった。いくら自分の苦しみや悲しみを訴えても、おろおろして謝るだけの彼女への苛立ちだ。
しかし、それはあまりに過酷な記憶だった。
(思い出さなくてよかった。これも『女神の采配』ってことなのかしら)
「そうか…。それでは公邸に戻るよ。君との結婚式を楽しみにしている」
「ええ、私も。そういえばこの指輪ってなんですの? 婚約指輪にしてはちょっと」
「もちろん結婚のための指輪はちゃんと用意してあるよ」
「では、私とアンナローゼ様を見分けるためとか」
「そうだね。エルンハイムの姫なら多少は聖女の力が宿るだろう? その力に反応して指輪は赤くなるんだ。うちの魔導士が作ったんだが、替え玉の防止ってことらしい」
「聖女かどうかわかるということですか?」
「いや、その可能性があるって程度だ」
「指輪は赤かった…ではアンナローゼ様はやはり聖女の力を持っているのね。でも、証は現れていないわ」
「それは良かった。もしかして、アンナローゼ姫はアンナの生まれ変わりじゃないのかい? 双子でもないのに君たちはそっくりだもの。それなら聖女なんて重荷を背負うより、ただただ幸せになってほしいと願うよ」
「そうですわね。いまのあの方は何も覚えてないし、とても幸せなようですわ」
「幸せ?」
「ええ、好きな方がいるようです。それもちゃんと自分で選んだ方が」
「では、何も言うことはない。ただ、僕にできることがあったら言ってくれ」
公爵は上機嫌で帰って行ったが、マチルダは愛しい人に会えた喜びとは別に大きな不安を覚えていた。
「ケイン、いる?」
足元から黒猫が現れ、メイドの姿に変わった。
「御用でしょうか?」
「アンナローゼとラビオはどこ?」
「海路で帰るそうです。闇市に迷惑を掛けたから様子を見たいとか言ってましたね。もう船に乗る頃だと思いますが」
「伝言をお願いしたいの、できる?」
「はい、もちろん」
「今から言うことをアンナローゼに伝えてちょうだい。『女神の契約』に耳を貸してはだめと」
「女神の契約?」
マチルダはさらに事細かにケインに指示を出した。
そして最後にラビオへの伝言を付け加えると、ケインの手を取った。
「お願いね、ケイン」
「かしこまりました」
ケインは今度は黒猫ではなく、大型の海鳥に変身してみせた。
そしてマチルダが窓を開けると翼を広げ、海の方へと飛び去って行った。
(ああ、私はなんてことを。アンナ、いえアンナローゼ。どうかあなたの幸せが守られますように)




