第2章 8話 動き出す時間
残酷な描写が含まれます。苦手な方はご遠慮下さい。
この物語はフィクションです。実在の人物、法人等は一切関係はございません。
第2章 8話 動き出す時間
牙達三人と一匹が去った「マリーの為のパン屋さん」には、「CLOSED」の札が掛かり、店舗奥の作業部屋に脳神経学者の東条と再生医学の権威とされる小島の姿だけがあった。牙が見かけた初老の老人の後姿は小島だったのである。作業部屋の真ん中に置かれる150センチ四方の作業台に向かい合って座る二人の前には、東条の作ったシフォンケーキと大き目のカップに入れられたコーヒーが置かれ、作業部屋の空気を満たしていた。
「君にこんな趣味があったとはね…」と言いならシフォンケーキを口に運ぶ小島の顔に笑みがこぼれる。
「おいしいよ! 大学教授なんかやめてケーキ屋を出してもいいんじゃないか? これならお客さんが喜んで買いにくるよ!」冗談とも本気とも取れるような小島の言葉は、最大の褒め言葉として東条に伝わる。
「ありがとうございます! 学生時代に行きつけの美味しいパン屋がなくなってしまって、何とか自分で再現したいと思ったのがきっかけだったのですが、自分で納得出来る物が最近ようやく作れるようになりました」
東条は照れ笑いしながらコーヒーを口に運ぶ。
「先ほど来ていた若者達は、うちの有望な新人看護士だよ…」
「そうでしたか…」
「医療関係者は特にV・R の世界を楽しむ人種が多いそうだが、やはり勤務中の異常な量の情報処理を行っている事の反動なのかもしれないね」
両肘を作業台につけ重ねた手の上に顎を載せるしぐさをしながら、考え深げに小島が言うのだった。
「可能性はありますね…他の仕事をしている人間の情報処理能力と比べても医療現場に従事している者の処理能力は三倍と言われています。救急救命の現場に居る者の中には四倍に近い数字を出す者も居るそうです…公表は控えていますが」
「四倍とは、すごいな」と言いながらも、さほど驚いた様子ではない小島教授がいる。
「普段から半分V・R の世界と関わって医療情報の確認や処理を行う彼らが、まったく別の世界を意識することによってその現実から開放される、そんなところなのかもしれません。こちらの世界での生活が彼らにとっての癒しになっている可能性はあります」
「なるほど…で、本題に移りたいと思うのだが」
その言葉に東条はリラックスした姿勢を正し真剣な目つきに変わっていく。
「いまだに全て解明されない脳の可能性を、見てみたくなったりました」
「それが、我々のプロジェクトに参加する、君の理由という事でいいのかな?」
どんな時も笑いを織り交ぜながら和やかな雰囲気で講義をする小島の顔は今そこに無く、見たことも無い真剣なおももちの小島が居る。
「はい」と東条は言いながらも何か含みを持った笑みを見せる。
「我々の知らないところで、すでに何か始めていそうな顔をしているのは、気のせいかな?」小島には六十歳を超え人を見る目と、自分が行ってきた研究については誰にも負けないと自負があった。何千人もの学生たちを見て、育ててきた小島に東条が何か隠しているとピンとくる何かがあったのだ。
「小島教授には隠し事は無理でしょうから、お話致します。今後の仕事に於ける信頼にも関わりますし」
口の中が乾くのを感じて東条はコーヒーを一口、口の中を全て潤す様にして飲み込む。
「一つは単純に情報を与えられているサンプルと与えられていないサンプルでの感じ方の違いと、このゲームの世界でスキルを使用出来るか出来ないかです」
小島は頷いて、コーヒーを口に運んでいく。
「もう一つは、私が開発に関わる時に条件として出した、『思いと祈り』によって、と言うキーワードに関わるものです」
「すでに二つも…」
東条は小島の表情が少し緩んだ気がするのだった。
「一つ目ですが先ほど小島先生の所の看護士が来ましたが、一番始めに着いた彼は狼族の青年でしたね?」
「ああ、うちの高山くんだったが…」
「小島先生には人の姿に見えていましたよね?」
当然だとばかりに小島は頷く。
「彼はうちの真理にとっては、犬に似た白い狼です…お分かりになったと思いますが、先生には彼が狼の姿になれるという事前情報はありませんから、当然人の姿の…彼…高山君に見えるわけです」
「あらかじめ狼族のプレイヤーが狼の姿になれると言うものと、何も書いていない物の二種類のパンフレットを用意して、ユーザーに配布しました。しかしこれは攻略スレなる物にすぐ情報が挙がってしまい、こちらが期待したようなデータは取れませんでした」
「それでもあらかじめ情報を与えられていた者たちは狼になる行為をスキル無しで自分の思いだけで自由に変身が出来るのに対して、後で情報を得た者たちは、狼になるスキルを発生させ、スキルを使用する事で狼の姿になるという違いを見せてくれています」
「面白い…興味深い話だ」前かがみに身を乗り出した小島の目は好奇心に満ち溢れている。
「これは児島先生も知ってらっしゃる道上と打ち合わせた上でやった、ちょっとした悪戯でして……それでも人の脳が、当然出来ると信じたこと事は出来、出来ないと思ったことは出来ないという事を証明する一つのサンプルになると思います」
「思いと祈りだったかな?次の話は…」催促するように小島が言う。
「今話した時に少しその話が混じってしまいましたが、僕は人の思いの究極が祈りだと思っているのです。無宗教の僕が言うのもなんなんですが……」
「その通りかもしれないね…僕は仏教徒だが、お経を唱えるだけが仏教の信仰ではないと思っている。どうしてもこうなりたいとか、この仕事を成し遂げたいとか、思いは人それぞれだろうけど、悲痛なまでの祈りが人を前に進める力となっているような気がする」
「先生を見ていると、わかる気がします。仏教徒になるならないは別の話ですが」
東条はごまかすように笑いながら、目の前の人物が自分の娘たちを失った事で、それまで無名だったこの人が、再生医療の分野で一躍注目されるところまでのし上がったのを知っていた。それは小島という人が娘を失った事で、同じ思いを他人には味わってほしくないという執念であったのかもしれない、と何時のころからか考えるようになっていた。
「このゲームのシステムは、レベルを上げることでHP、MP、が主に上がりそれと共に攻撃力、防御力、持続力等の基本的なステータスが上がる仕組みになっています。しかしそれは上手くステータスを上げることが出来なかったプレイヤーに対する救済措置のようなシステムで、基本はフリースキルとなっています」
「プレイヤーが行動することによって行動した所のステータスが上がる、これによってプレイヤーそれぞれが自分のスタイルに必要な部分から強くなっていける、これがこのゲーム一番の特徴です」
「開発段階で、およそ考え付く数千のスキルを組み込んでいます」
「数千か…」小島は少しあきれて、ためた何かを吐き出すように言う。
「本題はここからです、『思いと祈り』と言うキーワード、これの意味するものは、このゲームに参加するプレイヤーの思いと祈りで、習得するスキルや生産などで作れるアイテムが変わると言うことを意味しています。スキルの習得条件を満たせば発生するものと、プレイヤーが望んだことで習得するもの、そして祈りのような強い思いがあれば、こちらが用意していなかったスキルまでも発生させることが出来ます」
「ゲームの事についてはよく知らないが、普通プレイヤー側からの脳波入力にプログラムが反応し、プレイヤーに感覚データーを送り返すだけのシステムだが、このゲームはそれだけではない、ということかな?」
「その通りです。感情の振れを数値で感知し、ある一定以上の数値に達するとプログラムがそれを受け入れ、取り込むと言うシステムになっています」
「今の所、殺す、死にたい、ログアウトしたくない、といった幾つかの危険要素を含むワードに対しては反応しないようにはしてありますが…」
「それを、開放すると?」少し険しくなった小島の目が東条を見つめ、その真剣なまなざしに東条は苦笑いで答える。
「そこまでは考えてません! 私の一存で日本屈指のゲームカンパニーとプレイヤーの命を危機にさらしてしまうほど、私は非道な人間じゃありません…ですから先生たちのプロジェクトに参加させて頂くのです」
安堵したような小島の表情に東条もほっとするのだった。そして差し出された小島の手を取り、その暖かさを自分の手に感じる。
「宜しく頼む!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
力の込められた小島の手に東条は覚悟のようなものを小島から感じ取る。
「一つ質問していいですか?」
離されようとした手を握ったまま東条が言うのだった。
「先生たちのプロジェクトの一部である、A・I によってプレイヤー名が変更されました…僕の組んだ思いと祈りというプログラムが反応したんですが…」
一瞬硬直した小島の顔が、東条に何かとんでもないものに触ったという感触を与える。
「君には可愛い娘さんがいる、『知らない』ということで守られる命もあるかもしれない…あれは、そおいう類のものだよ」遠くに何かを見据えたような小島の目が、少し寂しさを含んでいるように東条は感じるのだった。
「知らないでいる方がいいと?」
「時が来れば、いずれ世に出る時がくる…その時までのお楽しみもあっていいじゃないか?」
「わ…わかりました」そう答えた東条は、小島がログアウトして作業部屋を後にするまでの間、一歩も身動きを取れないでいた。そこに家族の命までを奪ってしまうような軍事機密が存在し、既に片足を踏み込んでしまった自身の愚かしさを今更のように呪うのだった。
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