可愛くて可愛くて仕方がない大切な娘へ
これは、数年前の記憶である。これは、一宮玲佳、後に『傾国の少女』と呼ばれる少女、その父親の記憶である。
───そこは、古びた山荘だった。都会の喧騒から大きく外れ、近くに市街地の一つもない。人っ子一人寄り付かない、そんな山奥である。
けれど、その日だけは、その夜は違った。山荘を囲むように、包囲網をつくるように、多くの人間が物々しく武装して息を潜めている。何のためにこんな山奥に居るのか、果たしてその山荘の中に何があるのか。
答えは簡単だった。
その山荘には二人の親子が身を潜めていた。人を異常なまでに魅了する不思議な少女と、その平凡な父親。
その父親の手には、どこから手に入れたのか分からない拳銃が握られていた。とてもおぼつかない手つき。あんまりにも似合ってなくて、思わず笑ってしまいそうになるほどだ。そして、その父親は一つの窓、取り付けられたブラインドの隙間からバレないように外を覗いていた。敵の居場所を見定めるべく、冷や汗を垂らし苦い顔で。
一体どこで間違えたのか、何故こんなことになってしまったのか。大切な娘のこと、今はもう居ない妻のこと、今自分たちを追い詰めようとする『敵』のこと、それらが頭の中を巡って思考を乱す。
「おとう…さん…?」
ふいに背後から聞こえたその声に、父親の肩がビクリと跳ね上がった。しかし、それが守るべき娘の声であることに気付き、父親はそっと胸をなで下ろす。
「……なんだ、まだ起きていたのか?」
必死に、不安を気取られぬよう笑顔を取り繕う。貼ったような笑顔だが、眠そうな少女を不安にさせないためにはそれで十分だ。
「だってトイレに行こうと思ったら、横にお父さん居ないんだもん。夜更かしってしちゃいけないんでしょ? だったら、一緒に寝なきゃー」
「……、」
どう言い訳するべきか、父親は少しの間黙りこくってしまった。少しの沈黙を挟み、
「───ええっと、ごめんな、ちょっと父さんやらなきゃいけないことがあってな……」
そこで少女は、父親の手に握られた黒い異物に気付いた。それがどういうものか、年端もいかない少女だが、なんとなくは理解はしている。
「もしかして、クマが出たの⁉」
びっくりした顔で、少女が声をあげる。クマがいる、子供ながらの純真無垢な思考に、父親は乾いた笑いを出すことしか出来なかった。
「ああ……、そうなんだ。この辺りにクマが出たみたいなんだ。だから父さんが家に入ってこないように、……見張ってるんだ」
「ええ! どうしよう、お巡りさん呼ばないと!」
当然、近くに警察なんていない。いたとしても、頼りになんて出来ない。そもそも相手がクマですらないのだ。だけど少女は知らない。この少女はまだまっさらだ。まだ何色にも染まってなくて、この世界の汚い部分なんて知らない。
「大丈夫だよ」
慌てる娘を宥めるよう、黒い異物を机に置いて、両手で少女の小さな肩を掴む。その子を安心させるために。
「ははっ、父さん、すっごく強いからな。クマの二頭や三頭ドカーンだよ! だからね───」
一呼吸置いて、少女に目線を合わせて告げる。頭の中は不安で一杯だけど、この状況を打破出来る見通しなんて立っていないけど。これだけは、ハッキリと。
「───ここには、玲佳には、父さんが居るから。玲佳が危ない目に遭うなんてことは絶対にない。だから、玲佳は安心してていいんだよ」
少女の髪を掻き分けて、その目と真っすぐに向き合う。
「さあ、玲佳は部屋に戻って寝なさい。それで、よく寝られたら明日にめいっぱい遊ぼう。だから、ゆっくりとお休み」
とても優しい、温かい声だった。最後に父親は娘をギュッと抱きしめて、寝室へと送りだした。
「おとうさん、おやすみなさい……」
振り返りながら寝室へと向かう少女に、手を振る。
この愛しい娘を、世界のどす黒い醜悪に晒すわけにはいかない。
「ああ、おやすみ」
そうして、娘が奥の部屋に行ったのを確認し、父親は、再び黒い異物を手に納める。これが親子で過ごす最後の夜となることも知らずに。




