名前も知らない公園の少年へ
一宮玲佳の父親。彼が、娘との最後を過ごした夜よりも、更に数年前のことだ。
(───へえ、本当にこんなところに公園があったのか)
その父親は、一人で公園の中を歩いていた。何故彼が一人で、家族を連れてきていないのかというと、それはこの公園に視察をしに来ていたからだ。視察、というのは、公園の構造や利用者の様子など、娘を連れてきても安全であるかかどうかのチェックをするためのモノである。
彼の娘は少し特殊な性質だ。トラブルを避けるため、遊び一つに出るのにも事前の準備が当たり前になっていた。
(あまり利用者は多くないようだし、見晴らしもいい。周囲の状況もよく見える。遊んでいる子たちも比較的おとなしめの子が多いみたいだ。これなら、あの子を連れてきても大丈夫かもしれないな)
実際に遊具で遊んでいる子供たちを眺め、小さく微笑む。
もう十分だし、帰ろうか、そう考えていた矢先、視界の端に一人の少年が映った。
滑り台の頂上にいる男の子。五、六歳くらいの子か、これから滑り台を滑るのだろう。
男は、なんとなくでその子を眺めていた。しかし、その少年は中々滑り台に腰を下ろそうとしない。どうやら、近くを飛び回っているトンボに意識が向かっているらしい。少年の周りを回るように飛ぶトンボにつられて少年自身がクルクルと回ってしまっている。
(囲いの柵の背も高くないし、ちょっと危ないな…)
危ないよ、と一声かけようか、迷っていた丁度そのとき。少年がトンボを追ってフラフラと、柵から身を乗り出しバランスを崩した。
(───ッ!)
少年を注視していたのが幸いした。身を乗り出したそのときには走り出し、地面に落ちる寸前に少年を空中でキャッチすることが出来た。ほとんどダイビングキャッチだったので、地面をすべり砂にまみれてしまったが、なんとか少年に怪我はないようだった。
「大丈夫かい……、君?」
腕の中の少年を立ち上がらせながら、男が声をかける。
「うわー、びっくりしたぁー!」
ちょっとは泣いたりするかとも思ったが、助けた少年は思った以上にケロリとしている。
「おじさんありがとう、もう少しで落っこちちゃうところだった!」
「ハハハ…、もう落ちてはいるんだけどね……」
子供故の危険に対する無知さか、少年は全く気にしていない。すると、
「おじさんも、公園にあそびにきたの?」
落ちたことなんか早々に忘れて、少年は男を見上げるようにして疑問を投げかけた。子供も連れずに一人で公園にいる大人を珍しく思ったのだろう。
「んー……、いいや。私が遊びにきたんじゃないよ。今度、君と同い年くらいの娘を連れてこようと思って下見にきたんだ」
「そーなんだー」
自分から聞いてきたというのに少年は興味なさげだ。
そして、少し考えたのか、
「───じゃあ、その子も入れて三人であそぼうよ!」
突拍子もないが、少年は随分と楽し気な提案をしてくれた。
「……、」
本当なら喜んで受け入れたい申し出だ。しかし、男の脳裏にこれまでに起きた過去のトラブルがよぎり、即座に答えることが出来ない。
「是非、そうしたいな……」
物惜しそうに、残念そうに男がつぶやくと、続けて言った、
「あの子は…、うちの子は、少し特殊なんだ」
「とくしゅ?」
どんな風に特殊か考えているのか、そもそも特殊、という言葉の意味が分からないのか、少年は首を傾げている。
「なんて言ったらいいんだろうな……」
男はしばし考えて、子供にも分かりやすいように、
「その子はね。すっごい沢山の人から愛される、そういう特技があるんだ。ちょっとやりすぎなくらいなんだけど」
少年はまだピンときていないのか、男は続けて、
「君にも、大切な、両親や友達がいるんじゃないのかな? ちょっとその人たちを思い浮かべてみるといい」
言葉に、少年は、父と母、仲のいい幼馴染の女の子、それらを頭の中に思い浮かべる。
「うん、いるよ。パパとママ、それに仲良しの友達も」
少年は楽しそうに、大切な人たちのことを教えてくれる。
「君がその人たちを想うのと同じだよ、僕の娘も多くの人からそう想われている。ただ、ちょっとその度合いが強すぎるんだよ……」
「えっ、でも愛されるっていいことじゃないの?」
本来なら、愛されるのは素晴らしいことだ。この少年にもそう答えてやりたかった。だが、
「人を愛するっていうのにも、その形に良い、悪い、色々とあるんだよ」
男は、きれいごとの言葉だけをただ伝えることはしなかった。正直に、自分の思っていることをありのままに伝えた。どこか、残念そうな表情で。
「───ふーん、よくわかんない」
子供には難しすぎたか、と男は頭を掻き、
「はは、そうだよね。ごめんね、変なこと言って。……おじさんは、そろそろ家に帰るとするよ」
少年に怪我もないようだし、帰路に着こうと歩きだす。いつまでも少年と二人で話し続けていたら、それを不審者として通報されるなんてこともあるかもしれない。
そして、男は数歩歩いたところで振り返り、こう言い残した。
「君も、人を愛するのなら…、その人にとっての幸せを一度考えてみるといい。それは大事なことだ。無用な悲劇を生まない留め具として、十分に機能する」
「……?」
少年に、その言葉の意味は分からなかった。けれど、
「大人になれば分かる」
「───君は上手に、人を愛せる男になれよ」
そして、今もその言葉は、少年の心の奥深くに残り続けている。とある一人の父親から、名前も知らない少年の心へと。




