第96話 安さの代償
朝は静かだった。
いつもより、妙に静かだった。
安売りの旗が出ていない。
店の扉も開いていない。
マリノスの店ではない。
その向かい、いつも「底値」を掲げていた店だ。
客が集まり始める。
囁き声。
「まだ開かないのか」
「体調が悪いらしい」
エメリクが近づく。
扉は半開きだった。
中は薄暗い。
棚は昨日のまま。
値札もそのまま。
だが、奥の椅子に、店主が座ったまま動かない。
医者が来ていた。
モルドクではない。町の常駐医だ。
「過労でしょう」
短い診断。
「心臓が弱っていた」
誰かが言う。
「昨日も遅くまで帳簿を」
エメリクは店内を見渡す。
棚はきれいに整っている。
安い商品が中央に。
利益の薄い品ばかり。
倉の奥には、山のような在庫。
値札の書き換えが何度もされている。
赤い線が重なっている。
クレアが低く言う。
「昨日、さらに値を下げた」
「なぜ」
「客が流れたから」
エメリクは黙る。
エアリスが帳面を閉じる。
「削りすぎた」
誰も反論しない。
モルドクが静かに言う。
「持病もありました。栄養状態も良くなかった」
タウリナが眉をひそめる。
「食べてなかったの?」
「忙しくて」
店主の手は荒れていた。
指先は冷たい。
値札を書く手。
帳簿をめくる手。
削り続けた手。
エメリクは棚を見つめる。
「いくら削った」
誰も答えない。
「一割」
誰かが言う。
「二割かも」
エメリクはゆっくり言う。
「安さは命を削る」
静かな言葉だった。
怒号も、涙もない。
ただ空気が重い。
教会の鐘が鳴る。
同じ音。
同じ朝。
だが店主は立たない。
エアリスが小さく呟く。
「誰も殺してない」
「だが、誰も無関係じゃない」
エメリクは答えた。
棚の中央には、まだ安い袋が並んでいる。
その高さは変わらない。
だが、意味は変わった。
クレアが言う。
「店は閉める」
「家族は」
「借金がある」
沈黙。
エメリクは棚の一番下にある袋を手に取った。
中央に移す。
誰も止めない。
外では風が吹く。
旗が揺れる。
安売りの旗は出ない。
今日だけは。
エメリクは静かに言う。
「削るのをやめる」
誰に向けた言葉でもなかった。
蝋燭の芯が短くなっている。
火は消えていない。
だが、減っている。
値札の温度は冷たい。
だが人は温かい。
削り続ければ、どちらも消える。
店の扉が閉まる。
鐘が止む。




