第95話 余白
朝は静かだった。
市場も、店も、森も、まだ動き出していない。
エメリクは一人、店の裏口に立っていた。
昨夜の蝋燭は、短くなっている。
台座に残った蝋が固まり、白い縁を作っている。
燃えた分だけ、減る。
減った分だけ、形が変わる。
指で触れると、まだ少し温かい。
「燃えた分、何が残った?」
背後から声がした。
エアリスだ。
「灰か、灯りか」
エメリクは答えない。
視線は、地面に落ちている麦粒へ向いていた。
小さな粒。
昨日、袋からこぼれたものだ。
踏まれ、少し割れている。
拾う。
掌に乗せる。
「この粒は、どこに行くはずだった」
「棚か、牛の腹か」
エアリスが言う。
「それとも土」
エメリクは麦を見つめる。
「土に戻るなら、循環だ」
「棚に戻るなら?」
「演出だ」
風が吹く。
裏口の戸がきしむ。
遠くで牛の鳴き声がする。
牛はロスを食べ、脂を生む。
脂は蝋燭になり、夜を延ばす。
夜は消費を延ばし、また余りを生む。
円だ。
閉じた円。
「余白がない」
エメリクが言う。
エアリスが眉を上げる。
「余白?」
「岩を瓶に入れる」
エアリスは首を傾ける。
「瓶?」
エメリクは手を広げる。
「大きな石を入れる。まだ隙間がある。砂利を入れる。まだ隙間がある。砂を入れる。まだある」
「最後に水?」
「水で埋まる」
「それ以上は?」
「何かを抜かないと入らない」
沈黙。
エアリスが言う。
「今は何が入ってるの」
エメリクは麦を握る。
「石は税だ。砂利は価格だ。砂はロスだ。水は灯りだ」
「じゃあ抜くのは?」
エメリクは蝋燭の台座を見つめる。
「無駄だ」
エアリスは静かに笑う。
「無駄はどこ」
「棚の高さ」
「市場の机」
「教会の灯り」
一つ一つ、ゆっくりと言う。
エアリスは少し黙る。
「無駄を抜けば、何を入れる」
エメリクは答える。
「余白」
「余白って何」
「呼吸だ」
遠くで子どもの笑い声がする。
森の園からだ。
ボレアスの低い声も混じる。
余白がある場所。
「余白がないと、壊れる」
エメリクは麦を土に落とす。
「森も、海も、家も、人も」
エアリスが言う。
「市場も?」
「市場は余白を嫌う」
「なぜ」
「止まるから」
止まれば、回らない。
回らなければ、利益は出ない。
「でも回りすぎても壊れる」
エアリスは頷く。
「運命みたいね」
エメリクは小さく笑う。
「運命は音じゃない」
「何」
「設計だ」
蝋燭の芯が、黒くなっている。
昨日の炎の跡。
エメリクは指で芯を整える。
「燃え方を変えれば、減り方も変わる」
エアリスはそれを見つめる。
「あなたは、瓶を空けたいのね」
「空ける」
「全部?」
「必要な分だけ残す」
朝の光が少し強くなる。
棚に積まれた袋が見える。
大粒、小粒、規格外。
余り、脂、蝋。
全部、詰め込まれている。
エメリクは静かに言う。
「瓶を空けると、音が鳴る」
「どんな音」
エアリスが問う。
エメリクは答えない。
ただ、空を見上げる。
風が通る。
ほんのわずかに、広場の旗が揺れた。
ダ、ダ、ダ、ダーン。
誰も聞いていない。
だが、何かが始まっている。




