第88話 流れは、広げれば止まらない
炉の火は、思ったより静かだった。
爆ぜることもなく、ただ赤く、均一に燃えている。
癒院の裏手。
誰も使わなくなった共同炉の前で、エメリクは腕を組んで立っていた。
「……量は?」
「少ない」
答えたのはハウルドだった。
だが、その声に焦りはない。
「だが、回っている」
炉の周囲には、人がいた。
商人でもない。
農民でもない。
職人でもない。
子どもを連れた母親。
足を引きずる老人。
治療を終えたばかりの癒院の患者。
皆、手に小さな籠を持っている。
「金は?」
「取っていない」
「……では、どうやって」
ハウルドは、炉の向こうを指した。
焼き上がったパンを受け取った者たちが、
そのまま去らず、薪を一本置いていく。
別の者は、
明日の朝に使う水を汲んでいく代わりに、
麦殻を束ねて戻してきた。
「貨幣じゃない」
「……流れか」
エメリクは、小さく頷いた。
「市場を通さない」
「関所を通さない」
「税も、通行料も、ない」
だが――
止まってもいない。
「これが広がったら?」
エメリクの問いに、ハウルドは即答しなかった。
代わりに、遠くの街道を見た。
馬車が一台、通り過ぎる。
穀物袋を積み、関所へ向かう正規の流れだ。
「……止められる」
「誰に」
「関守」
「理由は?」
「通っていないから」
「税を?」
「払っていないから」
エメリクは、そこで初めて笑った。
「通っていないのに、通行税は取れない」
「……そうだな」
「物流とは、通るから課される」
彼は炉に近づき、焼き色を確かめた。
「これは、物流ではない」
「?」
「生活だ」
ハウルドは、ゆっくりと息を吐いた。
「広がれば、目をつけられる」
「もちろんだ」
「じゃあ――」
「だから、広げる」
エメリクは、炉の周囲を見渡した。
「一か所なら、潰せる」
「二か所なら、管理できる」
「三か所なら、監視する」
一歩、前へ。
「だが――無限なら?」
ハウルドの目が、わずかに見開かれた。
「同じことを、同時に、別々の村でやる」
「名前も変える」
「麦も変える」
「大麦、豆、芋、干し魚」
エメリクは、指を折る。
「共通点は一つだけ」
「市場を通らない」
「……それは」
「関税を無意味にする」
静かに、しかし確実に。
「流れを止めるには、全部を止めるしかない」
「そんなことは」
「できない」
エメリクは、空を見上げた。
雲が、風に流れている。
一つ一つは小さいが、切れ目はない。
「水も、風も、広がれば境界を忘れる」
「水瓶座らしい考えだな」
ハウルドの皮肉に、エメリクは笑った。
「だから、これは反乱じゃない」
「……?」
「居場所を増やすだけだ」
売れなかった麦。
選ばれなかった人。
正規から外れた流れ。
それらを一つに集めない。
分散させる。
「中心を作らない限り、
壊す場所は存在しない」
炉の火が、ふっと強くなった。
その炎は、
どこかで誰かが、
同じように火を起こしている証だった。
「……無限大、か」
ハウルドが呟く。
「そう」
エメリクは頷いた。
「∞は、端がない」
そのとき、遠くで関所の鐘が鳴った。
だが、この炉の火は揺れなかった。
流れは、もう一つの形を持ち始めていた。
止めるためには、
世界そのものを止めるしかない――
そんな場所へ。




