第87話 麦は闇で育たない
夜明け前の畑は、音がない。
風が通るたび、刈り残された麦の穂がわずかに揺れるだけだ。
ヴァルゴは畦道にしゃがみ込み、手のひらで土をすくった。
まだ湿り気がある。昨夜の露が残っている。
「……悪くない」
独り言のように呟き、指先で麦粒を割る。
中は詰まっている。色も均一だ。
だが、この麦は――正規の市場には出ない。
理由は単純だった。
規定より粒が小さい。
見た目が揃っていない。
袋に詰めたとき、絵にならない。
それだけで、この麦は「はねられる」。
味は良い。
腹も満たす。
だが、帳簿に載らない。
「闇麦、か……」
その言葉を嫌うように、ヴァルゴは首を振った。
「闇なんかじゃない。
ここで、ちゃんと育った」
足音がした。
振り向くと、ハウルドが立っていた。
外套の下に、麻袋を二つ抱えている。
朝露を避けるためか、布で丁寧に覆われていた。
「量は?」
「三割」
「十分だ」
即答だった。
ヴァルゴは立ち上がる。
「市場に出せば、罰金だよ」
「知ってる」
「関所に見つかれば、没収」
「それも知ってる」
それでも、ハウルドは袋を下ろさなかった。
「どうやって売るかは、もう決めてある」
「……聞かせて」
ハウルドは、畑の向こうを指した。
街道ではない。
村と村を結ぶ、細い生活路だ。
「粉にしない」
「え?」
「粒のまま、村で焼く」
「パン屋は?」
「使わない」
ヴァルゴの眉が動く。
「共同炉?」
「そう。癒院の裏の古い炉だ」
「……あそこ、使われてない」
「だから使う」
ハウルドは静かに続けた。
「市場を通すから、闇になる」
「関所を通すから、罪になる」
「なら――通さなければいい」
ヴァルゴは息を呑んだ。
それは反抗ではない。
逃避でもない。
構造の外で、腹を満たすという選択だった。
「値は?」
「決めない」
「は?」
「欲しい分だけ、持っていく」
「代わりに――次の麦を、また焼く」
循環だ。
貨幣ではなく、回転で支払う。
「……それ、捕まるよ」
「捕まるのは、売った者だ」
「じゃああなたが」
「いい」
ハウルドは肩をすくめた。
「倉を守るのが、俺の仕事だ」
ヴァルゴは、思わず笑った。
「蟹座らしい」
「そうか?」
「抱え込む」
「……守ってるだけだ」
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
朝の祈りの合図だ。
ヴァルゴはふと、教会の方向を見た。
「これ、ヨハンに知られたら――」
「知られる」
即答だった。
「だからこそ、やる」
「?」
「全部が正規なら、腹は満たされない」
ハウルドは袋を担ぎ直した。
「闇麦って言葉があるから、
みんな隠す」
「隠すから、罪になる」
一歩、畦道を進む。
「名前を変えればいい」
「……なんて?」
「生活麦」
ヴァルゴは、もう一度畑を見た。
朝日が昇り、麦の色が変わっていく。
「……じゃあ次は?」
「大麦だな」
「スープ?」
「いや」
ハウルドは、少しだけ笑った。
「子どもに食わせる」
その一言で、ヴァルゴは理解した。
これは密売ではない。
革命でもない。
選別されなかった麦に、居場所を与える仕事だ。
そしてこの流れは、
やがて関所へ、
税へ、
流通の根へと――
静かに、確実に触れていく。
麦は闇で育たない。
闇を作るのは、いつも人間の側だった。




