第86話 帳面の上にいる人間
関所を越えてから、道は急に整いすぎていた。
轍の幅が揃い、
石が均され、
馬車が揺れない。
「……金の匂いがする道だな」
ピスケスが鼻を鳴らす。
「魚の匂いじゃない」
エメリクも同意した。
「人の手が、入りすぎている」
川はここでも流れている。
だが、自由に蛇行していない。
堤防。
杭。
水位標。
水は測られ、
流れは管理されていた。
やがて、町が見えてくる。
港町とは違う。
漁村とも違う。
高い建物はない。
だが、どの家も妙に同じ形をしている。
倉。
事務所。
宿。
「ここは……」
「集積地だな」
エメリクが言う。
「人も、物も、情報も」
馬車を止めた瞬間、声がかかった。
「その魚、どこからだ」
今度は関所の男とは違う。
服がいい。
靴が乾いている。
「港から」
「港の名は」
「——」
答えた瞬間、男の眉がわずかに動いた。
「記録がある」
「当然だ」
「量は」
「三十桶」
「……予定より多いな」
「予定?」
男は、紙を広げた。
帳面ではない。
帳面を写した紙だ。
「今月、この港から流れる魚は、二十五桶のはずだ」
ピスケスが噴き出す。
「魚が予定通り獲れると思ってるの?」
男は気にも留めない。
「予定を超える分は、追加税だ」
「誰が決めた」
「“上”だ」
またその言葉。
エメリクは、はっきり聞いた。
「その“上”は、誰だ」
男は少し考え、そして言った。
「顔を持たない人たちだ」
「……は?」
「王でも、神官でもない」
「名前もない」
「だが、ここにいる全員が従っている」
ピスケスが腕を組む。
「それってさ」
「誰も責任取らないやつじゃない?」
男は、初めて苦笑した。
「賢いな、漁師」
「責任は、帳面にある」
「帳面が正しい限り、人は正しい」
エメリクの背中に、冷たいものが走る。
港では、
人が魚を切っていた。
村では、
人が人を見ていた。
だがここでは、
人は、紙を見ている。
「もし、帳面が間違っていたら」
エメリクが言う。
「その時は、帳面を直す」
「誰が」
「また“上”だ」
「上は、間違えないのか」
男は、首を横に振った。
「間違えない」
「なぜなら」
少し間を置いて、
「間違いは、下で調整されるからだ」
沈黙。
ピスケスが、静かに酒袋を閉じる。
「ねえ、村長」
「なんだ」
「この世界さ」
「魚が少ないんじゃない」
「多すぎるんだよ」
エメリクは、目を細めた。
「……帳面の中にな」
「そう」
「だから、あふれないように」
「入口で、絞ってる」
男が、通行証を差し出す。
「今回は通す」
「だが、次は予定を守れ」
「守らなければ」
「港ごと、締める」
馬車が再び動き出す。
町を離れ、川を下りながら、エメリクは考える。
剣で倒す敵ではない。
火を放つ相手でもない。
姿がない。
名前がない。
だが、確実に“上にいる”。
「なあ、ピスケス」
「なに」
「この仕組みを壊すには、どうすればいい」
彼女は即答しなかった。
しばらく川を見てから、言う。
「壊さなくていい」
「え?」
「増やせばいい」
「……何を」
ピスケスは、にやりと笑った。
「流れ」
「数えきれないほどの、流れ」
エメリクの中で、何かが静かに動き出す。
川は一本じゃない。
道も一本じゃない。
人も、魚も、金も。
無限に近づける方法は、必ずある。
その時、エメリクはまだ知らなかった。
この発想が、
やがて末広がりの地獄と希望を同時に呼び込むことを。




