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第85話 関所という名の喉

川は、港とは違う音を立てて流れていた。


海は広がり、受け入れる。

だが川は、通す。


エメリクが馬車を降りたとき、最初に感じたのは湿った土の匂いだった。

魚の匂いではない。

血の匂いでもない。


紙と木と人の匂い。


川沿いの道には、倉が並んでいる。

魚、麦、布、酒。

どれもここで一度、足を止める。


「……ここが喉か」


隣でピスケスが呟いた。


「飲み込む前のな」


関所は、石でできていた。

城ほど大きくはないが、村の家よりははるかに堅牢だ。


門の前には柵。

柵の前には机。

机の上には帳面。


そして――

帳面の前に、人がいる。


「止まれ」


声は静かだった。

怒号ではない。

命令でもない。


だが、逆らえない声。


「通行の目的は」


「魚の運搬だ」


エメリクが答える。


「量は」


「桶で三十」


「行き先は」


「下流の町」


男は帳面に線を引く。

文字を書く音が、やけに大きく聞こえた。


「通行料」


男は顔を上げずに言った。


「桶一つにつき、銅貨二枚」


「昨日までは一枚だったはずだ」


「昨日は昨日だ」


男は淡々としている。


「今日は今日」


ピスケスが一歩前に出る。


「誰が決めた」


「川だ」


男は、川を指さした。


「……川?」


「ここを通る以上、そうなる」


エメリクは、その言葉の裏を読む。


決めているのは川ではない。

川を管理している“誰か”だ。


「帳面を見せてくれ」


男は、初めて顔を上げた。


「村長か」


「そうだ」


「なら、見せられない」


「なぜ」


「これは“上”の帳面だ」


その瞬間、エメリクの中で何かが噛み合った。


港では、

魚を切る者が尊ばれ、

祈る者が尊ばれた。


だがここでは違う。


数える者が、すべてだ。


「魚が何匹かは関係ない」

「誰が切ったかも関係ない」

「祈ったかどうかも関係ない」


ピスケスが、低い声で言う。


「通すか、止めるか」


「それだけだ」


男は頷いた。


「その通り」


エメリクは、川を見る。


水は止まらない。

だが、人は止められる。


「もし払わなければ」


「通れない」


「魚は腐る」


「それもまた、自然だ」


その言葉に、ピスケスの目が細くなる。


「自然を、ずいぶん都合よく使うな」


男は肩をすくめた。


「我々は、ただの管理人だ」


管理人。


神でも、王でもない。

だが、流れを握る者。


エメリクは、財布を取り出した。


銅貨が、机の上に並ぶ。


一枚。

二枚。

三十桶分。


音が、やけに重い。


「……通っていい」


柵が開く。


馬車が動き出す。


だが、エメリクは振り返った。


「ひとつ聞く」


「何だ」


「この金は、どこへ行く」


男は、川の上流を指した。


「もっと上だ」


「誰のところだ」


男は、少しだけ口角を上げた。


「それを知るのは、まだ早い」


馬車が走り出す。


川沿いの道を進みながら、ピスケスがぽつりと言った。


「ねえ、村長」


「なんだ」


「港で魚が減る理由、わかった?」


「……ああ」


「獲りすぎじゃない」


「途中で、絞られてる」


ピスケスは、酒袋を揺らす。


「魚だけじゃない」


「人も、金も、時間も」


エメリクは、手綱を握りしめた。


港、川、関所。

切る者、祈る者、数える者。


次に必要なのは、

数えられない仕組みだ。


「この川は、敵になる」


ピスケスが言う。


「でも」


少し笑う。


「渡れれば、味方にもなる」


エメリクは、頷いた。


下剋上は、剣から始まらない。

火でも、血でもない。


帳面から始まる。


川は今日も流れている。


だがもう、

エメリクにはそれが

ただの水には見えなかった。

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