第84話 流れるものは、留まらない
翌朝、港は静かだった。
舟は並んでいるが、人影は少ない。
潮が引き、海底の石がところどころ顔を出している。
昨日の雨は、もう跡形もない。
エメリクは、桟橋の端に立っていた。
足元を水が流れ、木の隙間から落ちていく。
「流れは、戻らないな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
「戻らせようとするから、詰まる」
背後から、ピスケスの声がした。
「魚も、人も、貨も」
彼女は桶を抱えている。
中には氷と魚。
「港は、通り道だ」
「溜める場所じゃない」
エメリクは振り返る。
「だが、溜めたがる者は多い」
「そりゃそうさ」
ピスケスは肩をすくめた。
「止めて、数えて、囲えば、安心する」
桶を下ろし、魚を選別する。
「でもね」
「止めた瞬間に、腐る」
その言葉は、魚だけを指していなかった。
「昨日の魚、美味かったよ」
「切ったか」
「切った」
「祈ったか」
「祈った」
ピスケスは満足そうにうなずいた。
「それでいい」
少し間が空く。
「なあ、村長」
「なんだ」
「この魚、どこに行くと思う」
エメリクは、桶を見る。
「村に残るものもある」
「外へ出るものもある」
「そう」
ピスケスは、港の外を指さした。
「この先に、川がある」
「川の先に、町がある」
「そこで、止められる」
「止められる?」
「関所」
その言葉に、エメリクは目を細めた。
「通す者と、通さない者がいる」
「数える者と、見ない者がいる」
「切るより、祈るより、厄介だ」
ピスケスは笑った。
「血は水で流せる」
「でも、札は流れない」
エメリクは、その言葉を噛みしめた。
昨日、帳面を見ていたときに感じた違和感。
支出が増える前に、どこかで止まっている感覚。
「港で終わらない」
「終わらせないさ」
ピスケスは桶を持ち上げる。
「ここは始まりだ」
そのとき、桟橋の向こうから声がかかった。
「村長」
振り向くと、使いの者が立っている。
濡れた外套、慌ただしい息。
「川向こうの町から文が来ています」
「内容は」
「通行料が、変わったと」
エメリクは、一瞬だけ空を見る。
雲の切れ間から、光が差し込んでいた。
「……いくらだ」
「魚一桶につき、銅貨二枚」
「昨日までは」
「一枚でした」
ピスケスが、低く唸る。
「始まったな」
「何が」
「水を、せき止める仕事が」
エメリクは、深く息を吸った。
祈りを数え、
支出を数え、
役割を分けた。
次に来るのは――
流れそのものを、誰が握るか。
「行こう」
エメリクは言った。
「どこへ」
「川へ」
港に残る魚、
外へ出る魚。
その境目は、
もう海ではなかった。
水は、静かに流れ続けている。




