第83話 祈る者と、切る者
魚を持ち帰った夜、エメリクは灯りを落としたまま座っていた。
卓の上には、布に包まれた魚。
まだ冷たい。
刃は置いていない。
祈りも、口にしない。
ただ、そこに在る。
「切らないのか」
背後から声がした。
振り向くと、ヨハンが立っていた。
濡れた外套を脱ぎ、壁に掛けている。
「切る前に、考えてる」
「何を」
「誰が、この魚を終わらせたのか」
ヨハンは黙って卓を見る。
包みの形から、まだ手をつけていないことが分かる。
「海だ」
「そうだな」
「人じゃない」
「でも、人が拾った」
ヨハンは椅子に腰を下ろした。
「祈りと同じだ」
「どういう意味だ」
「神が救ったと言う」
「だが、祈ったのは人だ」
エメリクは、布の上に手を置いた。
「切るのは、人だ」
「だが、命を終わらせたのは海かもしれない」
ヨハンは、微かに笑った。
「どこで区切るか、という話か」
「そう」
しばらく、沈黙が落ちる。
外では、雨が完全に止んでいた。
波の音だけが遠くに残る。
「神官は、切らない」
ヨハンが言う。
「それは役割だ」
「逃げじゃないのか」
エメリクは、問いを投げる。
ヨハンはすぐに答えなかった。
「逃げだと思う日もある」
「……」
「だが、全てを背負えば壊れる」
ヨハンは、両手を見る。
「切る者が壊れ、祈る者が壊れ、守る者が壊れたら」
「村は?」
「先に壊れる」
エメリクは、布を解いた。
魚の眼が、灯りを反射する。
まだ澄んでいる。
「だから、分けた」
ヨハンが続ける。
「分けることで、続けた」
エメリクは、刃を取った。
「でも、分けすぎた」
刃先が、わずかに震える。
「祈る者は、切る現実を忘れ」
「切る者は、祈られる意味を忘れた」
一息。
刃が入る。
音は小さい。
血がにじむ。
「だから、今日は一緒に見る」
ヨハンは目を逸らさない。
「切るところを」
「祈らないのか」
「祈る」
ヨハンは、静かに言った。
「終わらせるために」
エメリクは、手を止めない。
切り分けられた魚は、
もう一匹の“命”ではない。
「……なあ」
ヨハンが、ぽつりと言う。
「もし、祈りが余って、切る手が足りなくなったら」
「その逆もある」
「どちらが先に壊れると思う」
エメリクは、答えなかった。
代わりに、切り終えた魚を皿に移す。
「だから、数えるんだ」
「何を」
「役割を」
ヨハンは、深く息を吐いた。
「危険な仕事だ」
「分かってる」
「それでも?」
「分からないまま続ける方が、もっと危険だ」
二人の間に、皿が置かれる。
それは供物でもなく、
ただの食事だった。
「食べよう」
エメリクが言う。
「祈る前に?」
「祈りながらでいい」
ヨハンは、小さくうなずいた。
二人は、同じ魚を口にする。
誰も裁かれず、
誰も赦されないまま。
水は流れ、
境目は、少しだけ曖昧になっていた。




