第82話 血と水の境目
雨は弱まり、港に戻ると空気が少し軽くなっていた。
石畳の水たまりに、空がぼんやりと映る。
「今日は切らない日だと思ってたがな」
ピスケスがそう言いながら、腰の短刀を外す。
刃は布に包まれ、濡れた木箱の上に置かれた。
「日曜でも、魚は死ぬ」
誰かが言うと、周囲が静かにうなずく。
漁師たちは集まり、舟の影で作業を始めた。
魚籠から取り出された魚が、板の上に並ぶ。
銀色の鱗。
まだ動く尾。
ピスケスは迷いなく刃を入れた。
血が流れ、雨水と混じって板の下へ落ちる。
「その血、嫌じゃないのか」
ヨハンが、ふと問いかけた。
周囲の手が止まる。
誰もが、その問いを聞いた。
ピスケスは一度だけ手を止め、ヨハンを見た。
「嫌だよ」
即答だった。
「でも、祈りと同じ」
「同じ?」
「どっちも、命に触る」
刃を入れ、内臓を取り出す。
手つきは丁寧で、急がない。
「祈りは、助けてほしいって言うこと」
「切るのは、終わらせること」
ヨハンは黙って聞いていた。
「終わらせないと、次が始まらない」
そう言って、魚を水で洗う。
血は流れ、跡形もなく消える。
「だから、神官は切らない」
「……なぜだ」
「終わらせる役目じゃないから」
ピスケスは、当たり前のことのように言った。
「でも、神官が切れないから、私たちがいる」
ヨハンは、魚から目を離せずにいた。
「ケガレだと、言われるだろう」
「言われるね」
ピスケスは笑った。
「でも、切らなきゃ食べられない」
エメリクは、そのやり取りを少し離れた場所で聞いていた。
刃を持つ者。
祈りを導く者。
どちらも、村には欠かせない。
だが、同じ場所に立つことはない。
「だから、ここが境目だ」
ピスケスが板を指さす。
「血が落ちるところまで」
「その先は?」
「水」
雨で満たされた溝を見せる。
「水に流せば、戻らない」
ヨハンは、ゆっくりとうなずいた。
「祈りも、そうだな」
「そう」
ピスケスは刃を拭きながら言った。
「戻れない人のために、祈る」
エメリクは、胸の奥がざらつくのを感じた。
流す者と、溜める者。
終わらせる者と、守る者。
この二人は、互いを否定しない。
否定しないから、危うい。
「村長」
不意に呼ばれ、エメリクは顔を上げた。
「魚、持ってくか」
差し出されたのは、切り身ではない。
まだ形を保った、一尾。
「自分で切れってことか」
「そういうこと」
ピスケスは笑った。
エメリクは受け取り、重さを確かめた。
刃を入れるか。
祈るか。
その選択を、誰も強いない。
水は静かに流れ、
血の跡を残さなかった。




