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第81話 刃を持つ手、祈る手

雨は、海と陸の境を曖昧にする。


港の石畳は黒く濡れ、足音は吸い込まれるように消えていた。

日曜の朝だというのに、舟は一艘も出ていない。


「今日は無理だな」


そう言って、漁師の男が網を畳む。

魚を追う者たちも、この雨だけは嫌わない。


「魚も休む」


誰かがそう言って笑った。


エメリクは、その様子を港の端から眺めていた。

昨日までの張り詰めた空気が、嘘のようにほどけている。


「今日は、行くのか」


声をかけられて振り返ると、港で会ったあの漁師だった。

名を聞いていないのに、顔はもう覚えている。


「教会へ?」


「そうだ」


エメリクがうなずくと、漁師は少し意外そうな顔をした。


「村長が?」


「祈りに行くのに、役は関係ないだろう」


その言葉に、漁師は声を立てて笑った。


「違いない」


雨の中、数人が港を離れ、石段を上っていく。

その中に、見慣れない女の背中があった。


濡れた髪をそのままに、長靴のまま歩いている。

腰に短刀。肩に古い布袋。


「彼女は?」


エメリクが聞くと、漁師は自然に答えた。


「ピスケスだ」


「漁師か?」


「漁師だな。移る方の」


移る方。

その一言で、エメリクは理解した。


定住しない漁師。

魚の流れに合わせて土地を変える者。


「信仰は?」


「あるさ」


漁師は当然のように言った。


「雨の日曜は、必ずな」


教会の扉は、すでに開いていた。

中には、農民、漁師、商人が混じって座っている。


服装も、立場も、年も違う。

だが、膝を折る姿勢だけは同じだ。


ピスケスは、迷いなく前の方に座った。

濡れたままの袖で、額を押さえる。


祈りの言葉は小さい。

だが、切れ目がない。


その隣に、ヨハンの姿があった。


互いに気づくと、自然にうなずき合う。

挨拶も説明もいらない。


エメリクは、その距離感を見逃さなかった。


「親しいのか」


小声で聞くと、漁師は肩をすくめた。


「似てる」


「何が?」


「流れに逆らわないところ」


説教が始まる。

神官の声は穏やかで、雨音と混じる。


罪を責めない。

努力も求めない。


「身を委ねよ」

「流れに身を置け」


その言葉に、漁師たちは深くうなずく。


刃物を持つ手。

祈りを捧げる手。


本来なら、相容れないはずの二つ。


だがここでは、同じ列に並んでいる。


礼拝が終わり、人が立ち上がる。

外はまだ雨だ。


ピスケスが立ち上がり、短刀を腰に差し直す。

その動作を、ヨハンが咎めることはない。


「魚は切るが、言葉は切らない」


そんな空気が流れている。


エメリクは、胸の奥で小さく息を吐いた。


祈りと殺生。

矛盾しているようで、彼らの中では一本につながっている。


だからこそ、疑わない。

疑わないから、深く沈む。


ヨハンがこの世界に安心を覚える理由が、

少しだけ、見えた気がした。


雨は止まない。

だが、誰も急がない。


流れに身を置く者たちの時間は、

器の外で、静かに進んでいた。

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