第80話 網の内と、網の外
夜明け前の港は、昼とは別の顔をしていた。
灯りは少なく、音も少ない。だが、動きだけは絶え間なく続いている。
濡れた板の上を、裸足が行き交う。
桶が置かれ、縄が解かれ、舟が静かに水を離れる。
「早いな」
エメリクがそう言うと、隣の男は肩をすくめた。
「魚は人を待たない」
それだけ言って、男は舟に乗り込む。
名を呼ぶ者はいない。だが、誰がどの舟に乗るかは決まっている。
エメリクは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
村の畑とは、まるで違う。
農村では、誰が耕し、誰が刈るかは話し合いで決まる。
だがここでは、話し合いが存在しない。
すでに「内」と「外」が分かれている。
「あなたは乗らないのか」
エメリクが声をかけると、年嵩の漁師が笑った。
「今日は若いのの番だ」
「番?」
「潮を見る役、網を投げる役、舟を戻す役。順番がある」
「決まりか?」
「決まりじゃない」
漁師は、海を見たまま答えた。
「覚えるものだ」
エメリクはそれ以上、聞かなかった。
聞いても、言葉では返ってこないと分かったからだ。
舟が沖へ出る。
その背を、港に残った者たちが見送る。
残る者は、魚を待つ。
戻る者は、魚を運ぶ。
どちらも漁師だが、同じ仕事ではない。
「外の者は、どうやって入る?」
不意に、エメリクはそう尋ねた。
漁師は一瞬、こちらを見た。
だがすぐに視線を戻す。
「入らない」
「入れない、ではなく?」
「入らない」
それは拒絶ではなかった。
事実を述べただけの声だった。
「舟は貸せる」
「網も教えられる」
「だが、海は教えられない」
エメリクは、その言葉を頭の中で転がした。
制度ではない。
規則でもない。
それでも、確かに線が引かれている。
農村なら、土地を買えば耕せる。
だが漁村では、海を買うことはできない。
海は、誰のものでもあり、誰のものでもない。
だからこそ、網が要る。
そして、その網は、人を選ぶ。
沖から、低い掛け声が聞こえた。
網が引かれる音。水が跳ねる音。
魚がかかっている。
港の空気が、わずかに変わる。
緊張でも興奮でもない。
「今日も来たな」
「多い」
「この潮は悪くない」
誰も数を口にしない。
だが、皆が量を感じ取っている。
エメリクは、その沈黙に、奇妙な安心を覚えた。
ここでは、祈りも、数字も、まだ混ざっていない。
舟が戻る。
魚が桶に移される。
一匹、また一匹。
その中に、エメリクの知る村の食卓はない。
ここで獲れた魚の多くは、別の土地へ流れる。
「ここに残るのは?」
「少し」
「なぜ全部、売らない」
漁師は、魚を掴みながら答えた。
「全部を外に出したら、次がない」
それは理屈ではなかった。
だが、極めて合理的だった。
エメリクは、港を見回した。
小さな家。簡素な倉。
移動を前提とした作り。
農村のように、百年残すつもりはない。
「魚が減ったら?」
「移る」
「土地は?」
「置いていく」
エメリクは、その言葉を胸の奥にしまった。
定住と、移動。
器を作る者と、水を追う者。
どちらが正しいわけでもない。
だが、同じ仕組みでは生きられない。
沖から戻った若い漁師が、笑いながら言った。
「今日は酒だな」
誰かが応える。
「魚が逃げなかった日だ」
エメリクは、その輪に入らなかった。
だが、遠ざかることもしなかった。
網の内に入るつもりはない。
だが、網の形は、知っておきたかった。
海は広い。
だが、人が生きる場所は、驚くほど狭い。
その狭さを、どう渡るか。
エメリクは、静かに水面を見つめていた。




