第79話 流れの民
潮の匂いは、村の朝とは違っていた。
湿り気を含んだ風が、皮膚の奥にまで染み込んでくる。
エメリクは、丘の上から港を見下ろしていた。
木造の桟橋。小さな舟。大きさの揃わない網。
そして――ひときわ騒がしい笑い声。
「おい、兄ちゃん。そんな顔してたら魚に逃げられるよ」
声の主は、酒袋を肩に下げた女だった。
日に焼けた肌。編み上げた髪。腰には短剣。
歩き方が、定住民のそれではない。
「……ここは村の港だ」
「知ってる。だから来た」
女は平然と言った。
「魚が減った。だから移動する。それだけ」
エメリクは、その言葉に引っかかった。
“減った”ではなく、“移動する”。
「捕りすぎたのでは?」
「違うね」
女は酒袋を一口あおり、笑った。
「海が変わった。潮が変わった。
魚は逃げた。
だから、私たちも動く」
その言い方は、あまりに当然で、あまりに軽かった。
「名前は?」
「ピスケス」
魚の名だ、とエメリクは思った。
「村に住むつもりは?」
「ない」
即答だった。
「家は重たい。
魚は軽い。
重たい方が沈むんだよ」
エメリクは、村の診療所を思い出していた。
医者や看護師の子どもたち。
給食で腹を満たしても、栄養が足りない子どもたち。
“定住”という前提で作られた仕組み。
「君たちは、いつもこうして移動するのか」
「そう。昔から」
ピスケスは肩をすくめた。
「漁師は家を持たない。
正確には――持てない」
「なぜだ」
「気候が変わるから。
寒くなれば南へ。
暖かくなれば北へ」
エメリクは、村の石造りの家々を思い浮かべた。
火事の後に再建された、重く、動かない建物。
「農民は違う」
「知ってる」
ピスケスは笑った。
「畑は逃げないからね」
その言葉は、冗談のようでいて、残酷だった。
「だから家は立派。
だから血は山から山へ。
私たちは海から海へ」
酒袋を振る。
「結婚相手も、沿岸沿いばっかりさ」
エメリクは、ここまで多くの“利権”を見てきた。
医療、教育、給食、農業。
すべて定住民の論理で組まれている。
「魚が減っても、動けない者がいる」
「そうだね」
ピスケスは一瞬だけ、真顔になった。
「だから、乱獲する。
動けない連中が、最後に奪う」
沈黙。
港の向こうで、鯨の影がゆっくりと浮かんだ。
崇められ、守られ、増えすぎた存在。
「……あいつらは?」
「毎日、山ほど食うよ」
ピスケスはため息をついた。
「オキアミも、魚も。
人間の取り分は減る一方」
エメリクの脳裏に、“器”が浮かぶ。
岩を入れ、砂利を入れ、水を注ぎ、
それ以上は――何かを抜かなければ入らない。
「君は、どこへ行く」
「魚のいるところ」
「また来るか」
「さあね」
ピスケスは背を向けた。
「でも覚えときな、村長さん」
振り返り、笑う。
「動けない社会は、必ず酒に溺れる」
その言葉が、後に誰かの最期を示すとは、
この時のエメリクは、まだ知らなかった。




