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第89話「かがみ」

私は、ただ映している。


名を呼ばれることはない。

祈られることもない。

裁く権限も、赦す力も持たない。


けれど――

この村で起きたことは、すべてここに残っている。


エメリクが気づいたのは、

「数を数えない仕組み」が回り始めたあとだった。


最初は偶然だった。


麦を余らせた農民が、

干し魚を多く持つ漁師に声をかけた。


値は決めなかった。

帳簿も出さなかった。


ただ、周囲に人がいた。


「それで釣り合うのか?」

誰かが見ていた。

「それは取りすぎじゃないか?」

誰かが口にした。


視線が、通貨の代わりになった。


私はそれを、歪みなく記録した。


ヨハンは言った。


「それは危うい」

「人は必ず、欲に負ける」

「信仰なき取引は、堕落を生む」


彼の言葉も、私は映した。


彼は間違っていない。

だが、正しくもない。


エメリクは、祈りを否定しなかった。


ただ、こう言った。


「祈りは数えられない」

「だが、歳出は必ず残る」


その瞬間、

この村は魚座の時代から一歩外に出た。


私は、それも映した。


村に、鏡は置かれていない。


だが、人は互いの顔を見るようになった。


働いていない者


取りすぎる者


苦しんでいる者


それらが、祈りの奥に隠れなくなった。


私は、それを黙って記録する。


教会は、この変化を好まなかった。


「見ること」は、

信仰よりも先に判断を生む。


関所も、これを嫌った。


「数えない流れ」は、

課税できない。


私は、それらの反応も、等しく映した。


エメリクは、まだ知らない。


この先、

鏡は必ず割ろうとされることを。


見られる側は、

いつか必ず怒る。


だが私は、逃げない。


割られれば、破片を残す。

隠されれば、隙間を映す。


私は人格ではない。

だが意志はある。


映し続けること。


それが、

魚の時代が終わり、

器の時代が始まった証拠だから。

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