第74話 治ったことにされる人々
朝の鐘は、思ったより軽かった。
金属が空気を切る音だけが残り、祈りの余韻は続かない。
エメリクは癒院の前庭に立ち、地面に落ちた水の跡を見ていた。
昨夜の雨だ。
だが、乾き方がまばらだった。
「……同じ雨なのに、残り方が違う」
横で帳面を抱えた書記が言った。
「土が違います。踏まれた場所ほど、乾きません」
「踏まれた場所ほど、乾かない……」
エメリクは小さく復唱した。
癒院の入口から、人が出てくる。
包帯を巻いた腕。
白い顔。
だが、歩き方は昨日と同じだ。
「……あの人、昨日も来てなかったか」
「来ていました。三日前も」
書記が帳面を開く。
同じ名前が、並んでいる。
「“完治”と書かれている」
「それは、どの時点で?」
「その日の処置が終わった時点で」
エメリクは首を振った。
「それは“終了”だ。“回復”じゃない」
入口の脇で、癒術師の男が声を張っていた。
「次の方! 今日は軽症が多い! ありがたい!」
ありがたい。
その言葉が、空気に残る。
軽症。
それは“命に関わらない”という意味だ。
“生活に戻れる”という意味ではない。
カペラが、後ろから来た。
夜勤明けの顔だが、姿勢は崩れていない。
「軽症って言葉、便利よね」
「何が便利なんだ」
「扱いやすい。説明しなくていい」
エメリクは頷いた。
「“重症じゃない”ってだけで、“大丈夫”にされる」
「そう。だから帰される」
「帰って、どうなる」
「働く。倒れる。戻る」
癒院の中から、子どもの泣き声が聞こえた。(泣き声)
泣き声は元気だったが、すぐに止んだ。
「子どもか」
「母親ね。子どもは付き添い」
カペラが小さく言う。
「最近、増えてる」
「何が」
「“元気そうな子”」
エメリクは眉をひそめた。
「元気そう、とは」
「走れる。笑える。けど、集中できない。すぐ疲れる。腹を壊す」
「それは……」
「“性格”って言われるやつ」
廊下の奥から、神官の声が聞こえた。
「子どもは元気です。少し落ち着きがないだけ」
「落ち着きがない、ね」
カペラが言った。
「落ち着かせる薬、出るわよ」
「出るのか」
「出る。“優しくする薬”って言い方で」
エメリクの喉が鳴った。
「原因は見ないのか」
「原因を見ると、誰かの責任になる」
「誰の」
「給食。畑。運び方。売り方。全部」
入口で、母親が頭を下げていた。
「ありがとうございました。元気になりました」
母親の声は震えていない。
信じたい声だ。
子どもは母の裾を掴んでいる。
その手は細い。
「……栄養、足りてるか?」
エメリクが問う。
母親は困ったように笑った。
「ちゃんと食べてます。毎日」
「何を」
「白い粥と、薄い汁」
「肉は」
「高くて」
「卵は」
「色の薄いのを少し」
エメリクは、昨日見た市場を思い出した。
見た目のいい野菜。
光沢のある卵。
味の話は、誰もしない。
「……癒院は、治していると思うか?」
エメリクがカペラに聞いた。
カペラは即答しなかった。
少し間を置いてから言う。
「“今を止めてる”とは思う」
「止めてる?」
「悪くなる速度を。一時的に」
「それは治療か」
「延命ね。生活の延命」
エメリクは地面の水跡を見た。
踏まれた場所ほど乾かない。
「……踏まれ続ける人ほど、戻ってくる」
「そう」
「踏まれない場所に移すには?」
「道を変えるしかない」
その時、帳面を抱えた若い癒術師が近づいてきた。
「村長家の方、ですよね」
「そうだ」
「最近、“治ったはずなのに戻る人”が多いと聞いています」
「聞いているだけか」
「……記録には残しています」
「記録して、どうする」
「……報告します」
「誰に」
「上に」
エメリクは、はっきり言った。
「“上”は、戻る人の数を喜ぶか」
癒術師は答えなかった。
答えられなかった。
「人が戻るほど、“必要とされている”と書ける」
エメリクは続けた。
「だがそれは、“治っていない”証拠だ」
癒術師は目を伏せた。
カペラが言った。
「ねえ。癒院って、“出口”がないのよ」
「出口?」
「治って、戻らない出口」
エメリクは息を吸った。
冷たい空気だった。
「……なら、出口を作る」
「どこに」
「ここじゃない」
「村に?」
「皿に」
「……畑に?」
「運び道に。売り方に」
カペラは小さく笑った。
「全部じゃない」
「全部だ」
エメリクは言った。
「一つでも欠けたら、また戻る」
癒院の鐘が鳴った。(鐘)
今度は昼の合図だ。
人が増える。
帳面が厚くなる。
“治った”の印が、増える。
エメリクは癒院を振り返った。
白い壁は、きれいだった。
だが中は、薄い人で満ちている。
「……次は、子どもたちの皿だ」
エメリクは言った。
カペラが頷く。
「給食ね」
「栄養を、数字で見せる」
「数字は嘘をつけるわよ」
「だから、数字だけにしない」
「何を足す?」
「……声だ。噛めない声。眠れない声。立てない声」
カペラは静かに答えた。
「それ、書けないわ」
「書かなくていい」
「じゃあ?」
「聞く」
鐘の音が消えたあとも、癒院の前庭は騒がしかった。
人は今日も“治ったことにされる”。
だが、
原因は、まだ皿の上に残っている。




