第73話 症状は消える、原因は残る
(馬車の軋む音)(蹄が石を叩く音)
夜明け前の冷えが、頬の内側まで染みた。
「……揺れ、きついな」
返事の代わりに、荷台で誰かが短く咳をした。
その咳は“痛い”じゃなく、“薄い”。息が紙みたいに軽い。
「水、飲む?」
「いらねぇ……飲んでも、落ちる」
落ちる、という言い方が嫌だった。
水が身体を通り抜けて、何も残らない。
それは“水が悪い”のではない。器が、すでに漏れている。
「……止めてくれ」
御者が馬を止める。(手綱の音)
エメリクは荷台に手をかけ、患者の顔を覗き込んだ。
「顔色が、蝋みたいだ」
「笑わせるな……蝋は燃えるだろ。俺は燃えねぇ……」
唇が乾いて割れ、言葉の端が欠けていた。
腹の底に力がない声だ。
「歩けるか」
「歩ける……歩けるけど、着いたら倒れる」
「それ、歩けてない」
「……そうだな」
風が吹き抜ける。(布がはためく音)
遠くで鐘が鳴った。礼拝の鐘じゃない。癒院の鐘だ。
「“鐘が鳴ると、人が増える”って本当か」
患者が言った。
「増える。だが、“治った人”も増える」
「治ったのに、ここにいるのか?」
「……治ったことにされただけだ」
患者は目を閉じた。
そのまま眠ったのか、気を失ったのか、判別がつかない。
エメリクは御者に指示した。
「癒院へ。急ぐ。だが馬は潰すな。馬は次も働く」
御者が頷く。(鞭の音はしない)
馬車が再び走り出す。(車輪の軋み)
癒院の門は開いていた。
開きっぱなしだ。閉じる暇がない。
(人のざわめき)(桶に水を汲む音)(布を裂く音)
入口で、白布を腕に巻いた女が声を張っていた。
「そっち、熱の列! こっち、傷の列! 息が浅い者は壁際!」
女は背が高く、動きが速い。
目が鋭くて、怒っているように見えるが、怒っていない。
必要なものだけを切り出す目だ。
「……そこの馬車、止めて!」
女が駆け寄ってきた。
荷台を見て、眉がわずかに寄る。
「また“抜ける”やつ?」
「抜ける、って?」
「飲んでも、食べても、血にも肉にもならない。そういうの」
言葉が、妙に具体的だった。
エメリクは気づく。
この女は“診る前”に、分類している。
「名前は?」
「エメリク。村長家の次男だ」
「身分はいい。で、患者は?」
「鍛冶場の者だ。火が怖いって言い出してから、食えなくなった。眠れない。腹が落ちる」
女は患者の目を開かせる。(指の擦れる音)
まぶたが重いのに、眼球だけが落ち着かない。
「……薬、飲んでる?」
「飲んでる。飲むと楽になるって、神官が……」
女の口元が一瞬だけ歪む。
笑いでも、怒りでもない。
「楽になる。そりゃなるよ。“痛みの声”を消す薬だもの」
「治るのか?」
「治った気になる。違い、分かる?」
エメリクは返せなかった。
分かっているのに、言葉にすると嘘になる。
女が短く言った。
「運ぶ。……手、貸して」
エメリクも担架を持つ。(木が軋む音)
患者は軽かった。
大人の男が、こんなに軽いのはおかしい。
「……お前、癒術師か?」
「違う。私は“看手”。呼び方はなんでもいい」
「名は?」
「カペラ」
その名が、妙に夜空の冷たさを連れてきた。
廊下の奥で、別の声が響いていた。
男の声。早口。言葉が多い。
「症状は落ち着いてます。ここが重要です。落ち着いてます。はい落ち着いてます」
「落ち着いてるのに、立てないんですが」
「立てないのは筋力です。筋力は別です。症状は落ち着いてます」
「症状って、何ですか」
「症状は症状です。痛み、吐き気、不安、そういうものです」
「原因は?」
「原因は一つとは限りません。なので、今は症状です」
カペラが、廊下の角で足を止めた。
指で空気を切るみたいに言う。
「……“落ち着いてます”って言うと、帳面が落ち着くのよ」
「帳面?」
「報告。支出。結果。そういうやつ」
患者を部屋に運び入れ、布団に寝かせる。
(布が擦れる音)(水の音)
カペラが患者の口に木匙で水を含ませる。
一滴、二滴。
それでも喉が拒む。
「飲めない」
「飲める量だけでいい。……ねえ、痛い?」
「痛く……ない。怖い」
「怖いのは、頭? 腹? 胸?」
「……全部」
カペラが頷く。
「じゃあ、胸からいこう」
そう言って、患者の背に手を当てる。
その手は温かい。
温かい手が、いちばん効くことがある。
だが、それは帳面に書けない。
別室に移ると、机が並び、紙が積まれ、瓶が並んでいた。
薬瓶。癒符。札。印。
紙が多いほど、安心する人たちがいる。
「……ここ、癒院なのに、役所みたいだな」
「癒院は、役所よ」
カペラが言った。
「“救う”って仕事は、必ず数になる。数にならないと、次が来ない」
エメリクは瓶を見た。
瓶の水面が、灯りを映して揺れる。
自分の顔が、歪んで映る。
「……水面って、鏡だな」
「そう。だから皆、ここで自分を見る。見たくない顔もね」
カペラが紙束を一つ取り上げる。
「これ、今日の“治った”の束」
「治った?」
「治ったことにする束。言い方、嫌い?」
「嫌いだ」
「私も」
カペラはため息を吐かずに続けた。
ため息を吐く暇がない。
「村の人は、“治った”って言われると帰るでしょ」
「帰る。働かなきゃ食えない」
「帰って、倒れて、また来る」
「……」
「それで、また“治った”って言われる」
エメリクは、その循環を頭の中で描いた。
瓶に石を入れる。まだ空気がある。
砂利を入れる。まだ空気がある。
最後に水を入れると、空気は押し出される。
だが瓶の中が満ちたら、もう何も入らない。
「……満ちた瓶に、水を足せば溢れるだけだ」
「そう。溢れたら床を濡らす。濡れた床は誰かを滑らせる」
「滑って怪我をする」
「怪我が増える」
「癒院が忙しくなる」
「紙が増える」
カペラが笑った。
声に出さない笑いだ。
「あなた、嫌なほど分かるのね」
「分かってるから、止めたい」
「止める? 何を?」
「“治ったことにする”のを」
カペラの目が細くなる。
「それ、誰が困るか分かってる?」
「患者は助かる」
「患者は、一瞬助かる。でも――」
「でも?」
「困るのは、上よ」
そこへ、神官の白衣が廊下を横切った。
白衣だが、袖口に金の刺繍がある。
癒院の白衣ではない。
カペラが小さく舌打ちした。(舌打ちの音は出ない。空気が切れるだけ)
「……聖約癒殿の人」
「公じゃなく、あっちの?」
「そう。あっちは豪奢。こっちは赤字。なのに患者は同じ」
神官がこちらに気づき、柔らかい声で言った。
「おや。村長家の方ですか。ご協力に感謝します」
柔らかい声は、刺さる。
柔らかい刃だ。
エメリクは礼を返さなかった。
返礼は、相手の物語に乗ることになる。
「患者を奪いに来たのか」
とエメリクが言うと、神官は笑った。
「奪うとは。救うのです。加護のある方を、より良い床へ」
「加護のある方?」
「証がある方です。……紙一枚ですがね」
紙一枚。
その紙で、列が変わる。
その紙で、扱いが変わる。
その紙で、同じ人間が別の価値になる。
カペラが、神官を見ずに言った。
「ここは王立。重症から診ます」
「聖約癒殿では、信仰から診ます」
「信仰の濃さで順番が変わるの?」
「順番ではありません。導きです」
導き。
言葉が、金箔みたいに光って見えた。
だが金箔は薄い。剥がれやすい。
エメリクは言った。
「導きで腹は満たせるか」
神官は笑顔のまま答える。
「腹は、施しで満ちます」
「その施しは、どこから来る」
「天から」
「帳簿には、天と書くのか」
神官の笑顔が一瞬固まった。
カペラがすっと前に出る。
「……質問するなら、ここじゃなく奥へ。帳面の置き場、知ってるでしょ」
神官は、視線を逸らした。
「忙しいので」
そして去っていった。(衣擦れの音)
患者の部屋に戻ると、鍛冶場の男が少しだけ目を開けていた。
「……村長家の……」
「今は話すな。息を数えろ」
男は息を数えるふりをした。
数えるほどの息がない。
カペラが小声で言う。
「この人、怖がってるの。心の病って言われるタイプ」
「心の病なのか」
「そう言われる。すると“胸の薬”が出る」
「胸の薬?」
「眠らせる薬。怯えを薄くする薬。便利よ。……便利すぎる」
エメリクは鍛冶場の男の手を見た。
火と鉄の仕事で、指が太い。
だが今は、爪の色が薄い。
「……血が薄い」
「栄養が薄い」
カペラが言う。
「薄いものは、薄いまま循環するの」
エメリクの背中に、冷たいものが落ちた気がした。
この“薄さ”は、給食の皿から始まった。
畑の規格から始まった。
関所の選別から始まった。
そしてここで、“胸の病”にされる。
「……原因を言わない理由は何だ」
カペラが、鍛冶場の男の額を拭きながら言った。
「原因を言うと、責任が生まれるから」
「責任が生まれると?」
「止めなきゃいけなくなる」
「止めれば?」
「誰かの金が止まる」
(布を絞る音)
水が落ちる。
「公の癒院は、赤字で英雄になる」
「私の癒殿は、黒字で聖者になる」
「でも患者は同じ」
「同じ。違うのは語り」
カペラが目を上げた。
「あなた、何をするつもり?」
エメリクは、瓶の水面を見た。
歪んだ自分の顔。
自分が自分を見つめている。
「……まず、“治った”の定義を変える」
「どう変える?」
「症状じゃなく、戻らないこと」
「戻らないって、何年?」
「半年。いや一年。……いや、生活に戻っても倒れないこと」
カペラは少しだけ口角を上げた。
「理屈っぽいのに、現場を見てる。珍しい」
「現場を見ないと、数字は嘘になる」
「数字は嘘じゃないわ」
「嘘じゃない。……嘘を隠せる道具だ」
その夜、癒院の外で雨が降った。(雨音)
屋根を叩く音が、鼓動みたいに続く。
エメリクは記録室で、紙束を一つだけ抜いた。
“治った”の束から、戻ってきた者の名前を探す。
同じ名前が、何度も出てくる。
「……同じ瓶に、同じ水を注いでいる」
カペラが背後から言った。
「溢れて、床を濡らして、それをまた拭いて、また注いでる」
「拭くのが治療になってる」
「そう。床を拭くのは偉い。濡らした原因を言うのは偉くない」
「……逆だな」
「逆が、長く続くと正義になるの」
エメリクは紙を束ね直した。
束ねる音が、やけに大きく聞こえた。
「次は何をする?」
カペラが問う。
エメリクは答えるまでに間を置いた。
この“間”は、祈りじゃない。決断の前の空白だ。
「ここで見たことを、村へ持ち帰る」
「村へ?」
「給食の皿に戻す。畑の土に戻す。関所の門に戻す」
「全部、敵が増えるわよ」
「敵が増えてもいい。……原因が増えたわけじゃない。見えるようになるだけだ」
カペラが小さく頷いた。
「じゃあ、私も書く」
「何を?」
「戻ってくる人の数。戻ってくる速さ。戻ってくる理由」
「理由?」
「理由じゃない。……戻り方よ。how。どう戻ってくるか」
雨音が強くなった。
癒院の灯りは揺れたが消えなかった。
(遠くで鐘)
夜の鐘は、祈りの鐘ではない。
“明日もまた、同じだけ来る”という合図だった。
エメリクはその鐘を聞きながら、瓶の水面を一度だけ見た。
水面には、疲れた顔が映っていた。
だが目の奥だけは、乾いていなかった。
——症状は消える。
だが原因は残る。
この章は、そこから始まる。




