第71話 守られる巨体、削られる命
朝の海は、まだ光を飲み込んでいた。
潮の匂いに混じって、血と鉄のような生臭さが漂う。
沖では、小舟が十隻ほど並んでいる。
漁網の先で、水面が何度も波打った。
「網が重いな」
船頭が言うと、若い漁師がうなずいた。
「魚は減ってるのに、網だけ重いんですよ」
引き上げられた網には、鯨のひれが引っかかっていた。
子鯨だ。
呼吸を求めて、暴れ、やがて静かになっている。
「触るな、罰金になるぞ!」
船頭が叫んだ。
エメリクは、船着き場の端でその光景を見ていた。
網の中の命は、魚でもなく、獲物でもない。
ただの数字だった。
「守られているのに、数が増えすぎてる」
彼は小さくつぶやいた。
船頭が苦笑した。
「罰を恐れて漁をやめりゃ、腹が減る。
でも鯨を取れば、牢屋行き。
魚が逃げても、誰も罪にならねえ」
エメリクは海を見つめた。
波の下では、鯨の群れがうねり、
小魚の群れが散り散りに逃げていく。
量が均衡を失えば、
最初に消えるのは「小さき者」だ。
港から村へ戻ると、ヴァルゴが待っていた。
腕に籠を下げ、白い布で覆っている。
「見て、エメリク」
布をめくると、卵が整然と並んでいた。
「市場で仕入れたの」
黄身が濃く、赤みを帯びている。
「綺麗だな」
「ええ。でも、匂いが違う」
ヴァルゴが一つ割る。
湯気の上がる鍋の中に、卵を落とす。
黄身は濃いが、立たない。
白身が水のように散った。
「……匂いが薄い」
エメリクが言うと、ヴァルゴが頷いた。
「飼料にパプリカを混ぜてるの。
色は強くなるけど、味は抜ける」
「見た目を良くして、栄養を減らすのか」
「買う人は、色で選ぶのよ。
“濃い黄身”が良い卵だと思ってる」
彼女は、もう一つ別の籠を開けた。
こちらの卵は不揃いで、白っぽい。
「これは?」
「地元の農家の。小粒で、形も悪いけど――」
割ると、黄身がぷるりと立った。
白身に粘りがあり、火を通すと香ばしい匂いが立ちのぼった。
エメリクはひと口食べた。
味は濃い。
だが、それ以上に「身体に入る感じ」が違う。
「これは……体が温かくなる」
ヴァルゴが笑った。
「それが“生きてる卵”。
でも市には出せない。形が悪いから」
夕刻。
教会領の市場で、卵が並んでいた。
どれも均一な大きさ、均一な色。
黄身の見本のように、橙色が光っている。
「これが、民が買う卵だ」
エメリクは呟いた。
「だが、食べても満たされない」
神官が後ろから声をかける。
「満たすのは、祈りですよ。
腹ではなく、心を」
「では、腹を空かせた心はどうする?」
神官は笑わなかった。
「それは……神が決めることです」
エメリクは瓶のような沈黙を保ったまま、市を歩く。
魚屋の棚では、
かつてこの村で獲れたはずの魚がほとんど姿を消していた。
代わりに、遠くの海で育てられた大型魚が氷に並ぶ。
「これも増やされている」
ヴァルゴが呟いた。
「早く育てて、太らせて、見た目を良くして……でも、身が軽い」
「身が軽い?」
「栄養が、締まっていない。
食べても、力にならないの」
市場を出た帰り道、二人は馬車に揺られていた。
エメリクは、手に持った卵をそっと見つめた。
光を受けた殻が、薄く透けている。
「守られている命は、増える。
でも、育てられすぎた命は、空になる」
ヴァルゴが横を向いた。
「だからあなたは、何を守るの?」
「味だ。
味の中にしか、本当の栄養は残らない」
風が海の方から吹いた。
鯨の鳴き声が、遠くで低く響いた。
「海も、畑も、同じだな」
「どうして?」
「見た目が増えるほど、中身が消えていく」
ヴァルゴが微笑む。
「じゃあ、次は中身を探す旅ね」
馬車が街道を走り抜けた。
夕暮れの海が光を失い、
空には、瓶のような淡い青が広がっていた。




