第70話「運ばれる間に、失われるもの」
「運ばれる間に、失われるもの」
夜明け前の街道は、まだ闇に沈んでいた。
馬の吐く白い息だけが、規則正しく空に溶ける。
革の軋む音。
車輪が石を噛む音。
エメリクは、馬車の後部に立っていた。
木箱が積まれている。
縄で縛られ、藁が詰められた箱。
「出ますぞ」
御者が低く声をかける。
鞭は振るわれない。
ただ、馬が歩き出す。
最初の道は、まだ良かった。
村と村を結ぶ、年に一度だけ整えられる街道。
農閑期に農民が直した、石と土の道。
「ここまでは、揺れも少ない」
御者が言う。
「問題は?」
「関所と、市です」
馬車が進むにつれ、揺れが増す。
車輪が跳ね、箱が軋む。
「藁は十分か?」
「これ以上入れると、箱が減ります」
「積載量を減らすと、怒られますから」
「誰に?」
「市の仲買にも、教会にも」
同じ答えだった。
最初の関所。
木の柵と、石の詰所。
槍を持った番人が、手を上げる。
「止まれ」
箱が開けられる。
「傷んでいるな」
「道のせいです」
「理由は関係ない」
箱の一つに、炭で印が付けられた。
「これは?」
「市には出せん」
「祈祷所行きか、廃棄だ」
「中身は?」
「見ん」
「形が崩れている」
エメリクの胸が、静かに軋んだ。
再び走る。
日が昇り、気温が上がる。
箱の中の野菜は、呼吸を続けている。
「ここで布をかけます」
「最初からかけなかったのは?」
「湿気ると、今度は“腐りかけ”と言われます」
「誰に?」
「全部です」
次の関所は、教会だった。
「産地は?」
「南の谷です」
「規模は?」
「小さい」
神官が、わずかに眉をひそめる。
「安定供給は?」
「自然次第です」
「それは、危うい」
箱が一つ、祈祷料名目で引き取られた。
エメリクは、帳面に記す。
・揺れ
・時間
・日差し
・関所
・祈祷
・通行料
すべてが、
「正しさ」の名をしている。
だが。
「これは、守っていない」
「削っている」
御者が、苦く笑った。
「強い作物だけが残ります」
「形が良く、日持ちして、言うことを聞くやつだけ」
「それは、本当に“良い作物”か?」
答えはなかった。
夕刻。
市の門が見える。
降ろされた箱は、出発時より少ない。
「減りましたな」
「いつものことです」
「減った分は?」
「途中で、消えました」
「誰も数えていません」
帰路。
エメリクは、ヴァルゴの言葉を思い出す。
——畑では、生きていた。
「畑から市までで、何が残った?」
御者は少し考え、言った。
「値が付けやすいものです」
「命の部分は……」
「途中で、落ちました」
その瞬間、
エメリクははっきりと理解した。
「低栄養は、畑の責任ではない」
「運ばれる間に、削られている」
帳面に、最後の一行を書く。
「流通とは、命を形に削る工程である」
市のざわめきが、風に乗って届く。
次は、
並べられた瞬間に、何が決まるのか。
エメリクは、門を見据えた。




