第67話「畑は嘘をつかない」
夜明け前の畑は、音が少ない。
風が草をなでる音と、
遠くで鳥が一声鳴くだけ。
エメリクは長靴の感触を確かめながら、畝の間を歩いていた。
まだ陽は昇っていない。
だが、土はすでに温度を持っている。
「……この匂いだ」
前世で、鈴村陽一だった頃。
この匂いを嗅いだ記憶はほとんどなかった。
包装された野菜。
洗われ、切られ、袋に入ったものしか知らなかった。
だが今、足元にあるのは――
嘘をつかないものだ。
「今年は、あまり良くない」
畑の主が言った。
年老いた農夫で、背は低いが、声には張りがある。
「雨がずれました」
「霜も、早かった」
「それでも、植えた?」
「植えました」
即答だった。
「なぜだ?」
農夫は、土をひとつかみ取った。
「食べるからです」
「売るためじゃない」
その言葉に、エメリクは足を止めた。
畑の端には、柵がある。
だが、その向こうにも畑は続いていた。
「向こうは?」
「契約畑です」
「王都向け」
声の調子が変わった。
「同じ種か?」
「同じです」
「でも、育て方が違う」
「どう違う?」
農夫は、しばらく黙った。
「向こうは“数”です」
「こちらは“命”です」
エメリクは、理解した。
契約畑は、
量、形、期限。
畝はまっすぐ。
背丈は揃えられ、
実の大きさも均一。
だが、味は薄い。
「肥料は?」
「指定のものです」
「効きます。早いです」
「代わりに?」
「土が痩せます」
淡々とした答えだった。
村に戻る途中、牛舎に立ち寄った。
白黒の大きな牛。
おとなしく、同じ餌を食べている。
「この乳は、給食に?」
「はい」
「脂肪を抜いて出しています」
「なぜ抜く?」
「基準です」
また、その言葉。
基準。
エメリクは、牛の目を見た。
濁ってはいない。
だが、どこか遠い。
「この牛は、草を食べていないな」
「効率が悪いので」
「では、何を?」
「穀物です」
「海外から来たもの」
穀物を食べ、
乳を出し、
脂肪を抜かれ、
均一な白になる。
「牛の個性は?」
「必要ありません」
エメリクは、拳を握った。
港では、漁師たちが網を直していた。
「今日は?」
「少ない」
即答だった。
「理由は?」
「分かりません」
だが、皆、同じ方向を見ていた。
沖。
「魚が減った?」
「減りました」
「でも、いなくなったわけじゃない」
「では?」
「食われています」
「誰に?」
漁師は、空を仰いだ。
「大きいのに」
それ以上は言わなかった。
だが、エメリクは理解した。
海の中の秩序が、
別の意志で書き換えられている。
夜。
村の集会所で、エメリクは帳面を広げていた。
給食。
畑。
牛舎。
港。
全てが、一本の線で繋がる。
「質のあるものは、外へ」
「均一なものだけが、内へ」
それは偶然ではない。
「誰が決めた?」
書記が問う。
「誰でもない」
「“楽な仕組み”が決めた」
楽で、早く、文句が出にくい。
だが、その代わりに――
身体が削られる。
「低栄養は、貧しさじゃない」
「構造だ」
エメリクは、前世を思い出していた。
鈴村陽一。
理由も分からず、
疲れ、眠くなり、
集中できなかった日々。
「怠けている」と言われた。
「努力が足りない」と言われた。
だが、
努力するための身体が、
最初から奪われていた。
「農家は、悪くない」
「漁師も、悪くない」
「牛も、悪くない」
エメリクは、静かに言った。
「悪いのは――」
「“見ないこと”を選んだ仕組みだ」
帳面を閉じる。
第11章は、ここから始まる。
食べ物を作る者たちの現実。
そして、
なぜ良いものが届かないのか。
この先で、
裁かれるのは人ではない。
仕組みそのものだ。




