第64話「満たされた腹、足りない身体」
給食の時間は、いつも同じ音から始まる。
木の器が並び、
金属の匙が触れ合い、
子どもたちのざわめきが少しずつ大きくなる。
エメリクは、給食室の隅に立ち、
配膳の流れを黙って見ていた。
「量は、十分ですね」
隣に立つ調理係が言う。
「はい。基準通りです」
「基準、とは?」
「腹を満たす量です」
その言葉に、エメリクは小さくうなずいた。
「腹は、満たしている」
配られる椀。
白い粥。
刻まれた根菜。
薄い汁。
どれも悪くはない。
腐っていない。
異臭もない。
「だが――」
エメリクは、子どもたちの顔を見た。
早く食べ終える子。
途中で匙が止まる子。
無言で飲み込む子。
「身体は、満たされていない」
「食べているのに、力が出ない子がいます」
養育係の女が、静かに言った。
「朝からぼんやりしている」
「昼を過ぎると、眠る」
「夕方には、苛立つ」
「熱は?」
「ありません」
「怪我は?」
「ありません」
「なら――」
エメリクは言葉を切った。
「“病気ではない”という理由で、見過ごされている」
女は目を伏せた。
「ええ。よくあることです」
「よくある、が一番厄介だ」
エメリクは、子どもが残した椀を手に取った。
ほとんど減っていない。
「量が多すぎる?」
「いいえ。むしろ少ないと感じる子もいます」
「味?」
「慣れています」
「なら、なぜ残す?」
女は、しばらく考えてから答えた。
「身体が、受け取れないのだと思います」
その言葉は、静かだったが重かった。
別の部屋。
帳面の前で、エメリクは書記と向き合っていた。
「一人あたりの供給量は、規定内」
「栄養値も、帳面上は足りている」
「“帳面上”だな」
「はい」
「では、これは何だ?」
エメリクは、別の紙を差し出した。
そこには、簡単な記録があった。
・集中が続かない
・文字を追えない
・些細なことで泣く
・怒りやすい
「学力の問題として処理されています」
書記が言う。
「“できる子”“できない子”の仕分けに使われています」
エメリクは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「食べ物が原因だと、誰も考えないのか?」
「考える者はいます」
「では、なぜ変わらない?」
書記は、即答しなかった。
「変えても、評価されないからです」
「評価?」
「点数にならない」
「成果がすぐに出ない」
「責任の所在が曖昧」
エメリクは、前世の記憶を思い出していた。
鈴村陽一だった頃。
「努力が足りない」
「集中力がない」
「やる気の問題」
そう言われ続けた時間。
食事の内容を問う者は、誰もいなかった。
「栄養とは、数字ではない」
エメリクは、給食室に戻り、そう言った。
「身体が、何を使えるかだ」
「使える?」
調理係が首をかしげる。
「口に入れることと、身体が使うことは違う」
エメリクは、器を指した。
「同じ食事でも、吸収できる者とできない者がいる」
「成長期の子どもほど、その差は大きい」
「では、どうすれば?」
「まず――」
エメリクは、子どもたちの列を見た。
「“足りている”という前提を疑う」
それは、誰もやりたがらない仕事だった。
基準を疑う。
制度を疑う。
善意を疑う。
「この章で扱うのは、毒ではない」
エメリクは、はっきりと言った。
「“不足”だ」
与えているつもりで、
実は届いていないもの。
満たしているつもりで、
育てていない身体。
「次は、何が足りていないのかを、一つずつ見る」
給食の時間が終わる。
子どもたちは立ち上がり、
椀を片付け、
それぞれの午後へ戻っていく。
腹は、満たされた。
だが――
身体は、まだ空腹だった。




